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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第八章 ショパン ピアノソナタ 第三番
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93 過去の糸口

康太視点になります。

「まあ、息子の話はおいといて。先日の佐藤楽器店では、度肝を抜かれたよ、まったく……。吉野君。キミ、なんでここに来なかったんだい? 佐藤店長の話によると、君のお母さんも百合ノ葉出身だって言うじゃないか。受験の時、ここも選択肢にあったんじゃないのか? 」


 またこの話か……とやや不快げな表情を浮かべたのは沙紀だけで、康太は意外にも素直に教授の話を受け止めていた。

 先日の演奏の後の教授の目は、康太の音を無条件に認めて評価してくれている目だったと、なぜか直感的に感じ取っていたのだ。

 会ったこともない人なのに、どこかなつかしさすら感じるこの人に康太はいつの間にか心の内の全てをさらけ出してもいいような、そんな気持ちになっていた。

 そして……。


「先生。全く迷いがなかったと言ったら嘘になりますが……。それはここの大学ではなくて、今両親がいるドイツの音楽学校への進学を勧められていました。ただ、僕はその頃サッカーに夢中で、絶対に日本から出たくなかったというのと、小学校の音楽教師をしている叔父の影響もあって自分も教師になってみたいと思う気持ちが勝っていたというのが、音楽への道を選ばなかった大きな理由です」

「そうか。ならば、ピアノはこの先、趣味でやっていくとでも? 」

「はい。そうなります」

「うーーむ。まあ、それも君の人生かもしれないが。でも私はあきらめないよ。この前の君のショパンの解釈は、私もほぼ同意見だ。大げさにならず、華美にならず。最初の数小節を聴いただけで、あ、これは……と君の演奏に惹きこまれていたよ」

「そう言っていただけると、僕も嬉しいです。この曲に限っては、ルビンシュタインの演奏が僕の目標です」

「やはりな。そうだと思った。ここはいろいろ意見が分かれるところだが、私も同じだ。それと、技術的にもはっきり言って、君の方が私よりずっとうまい。私はとっくに演奏家への道は断念しているので、指導者として、そして研究者として成すべきことをやっているわけだが、君のような学生に出会うと、じっとしていられなくなるんだ。で、君の演奏スタイルは、やはりお母さんの影響が大きいのかな? 」

「いや、どうでしょうか。どちらかと言えば、母は、反面教師だったかもしれません。母の言うことには大方逆らってきた部分が多いので、僕の弾き方はあまり母には気に入ってもらえませんでした」

「ははは……! そうなのか? それはいい。自分の子の指導ほど厄介な物はないからな」

「やはり先生でもそうなんですか……。僕も今、それを実感しているところです」


 康太は沙紀のレッスンで似たような環境にあると思ったのだ。

 彼女にはこう弾いて欲しい。このように表現して欲しいと主観だらけで接してしまう。

 心が通じているはずの彼女ならわかってくれるに違いない。

 そして、すぐに自分の言うことを理解してくれるだろう、などと思うものだから、瞬く間に衝突してしまう。


「おやおや、まだ子どももいないだろう君にわかってもらえるとは」

「あ、いや。それが、彼女のレッスンを母から引き継いで、僕がやっているものですから、それで……」


 康太はやや気まずさを抱えながら沙紀を見た。

 沙紀もそんな康太と目を合わせ、クスッと微笑んだ。


「なるほどね。そういうことか。お二人はとてもいいコンビだよ。音楽と言う共通事項を介して繋がり合えることほど幸せなことはないね」

「あ、いや、まあ……」


 康太は少し焦っていた。

 木下教授に沙紀のことを彼女だと紹介したわけではないのにすでに見抜かれているようだ。

 佐藤店長から何か入れ知恵をされたのだろうか。

 いやでも、佐藤店長も沙紀とのことは知られていないはずだ。

 一緒にいるというだけでそのようにすべてわかってしまうのだろうか。


「では、どうだろう。私が君のレッスンをするというのは? ダメだろうか? 」


 突然の教授の提案に、康太は目を見開いた。

 教授自らのレッスンの申し出に、康太はやや面食らっていた。

 まだ二度しか会っていない上に、教授から見れば康太など、どこの馬の骨ともわからないその辺の行きずりの男にも等しい存在でしかないはずだ。

 なのに……だ。

 でも康太は、木下教授のレッスンを受けてみたいと真剣に思い始めていた。

 なんと言っても、まだソナタの一部を聴いてもらっただけでしかない。

 もらった褒め言葉も、半分以上は世辞の類であったのかも……と疑いたくなるのも仕方ないだろう。

 その言葉の奥にあるものを知りたい気持ちもあるし、母親との関係も気になるところだ。

 まだもう少しこの温厚そうな人物と繋がりを保っていたいと、本人が知らぬ間に彼の魂が欲しているのかもしれない。


「お願いしてもいいでしょうか」


 康太はまだ自分の中で最終結論が出ていないにもかかわらず、いつの間にか教授の申し出を受けていた。

 自分でも不思議でならなかった。

 何事にも慎重なほうであると自己分析しているのに、意外にも大胆な自分を新たに発掘したようで、康太は愉快な気持ちになっていた。

 隣に座る沙紀も目を丸くして康太と木下教授を交互に見ている。


「よし。そうと決まれば、膳は急げだ。レッスンはどこでするのがいいのかな? ここだとやはり外部学生の君が頻繁に出入りするのはまずいだろう。私の自宅でもいいのだが……。でも人の出入りが多くて落ち着かないな。そうだ。私たちが出会った佐藤楽器店はどうだろう。あそこならレッスン用の個室もあるはずだ」


 ますますリラックスした木下教授は足を組み、時折回転椅子を左右に回しながら、楽しそうに今後の計画を語り始めた。

 康太も相槌を打ったり、意見を織り交ぜたりしながら、話に加わっていく。

 そして、急に木下教授が何かを思いついたように、一点を見つめたまま黙り込んでしまった。


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