92 素顔の教授
康太視点になります。
「ああ、やはり君達だったか。さっき学生課から内線が入って、そろそろ来る頃かと思って待っていたんだよ」
優しい笑顔のこの人は間違いなく先日佐藤楽器店で出会った教授だった。
でも……。
「あ、あのう……。私はこれで失礼します。じゃあ、先生、星川君に伴奏の件、よろしく伝えてくださいね」
沙紀と木下教授の間に挟まれた女子大生が胸に楽譜を抱きしめるようにしながらペコっと頭を下げる。
そしてもう一度沙紀と康太をチラっと見て、階段のある方向に向かって足早に歩いて行った。
「さあさあ、二人とも。そんなところに立ってないで、中に入って……。コーヒー淹れるからその辺に座って待っててくださいね」
き、木下教授……。
確かに木下教授には違いないのだけれど、康太も沙紀も教授の全身像を見て、挨拶をするのも忘れてぽかんと口を開けている。
本当に前に会った、あの紳士だった木下教授と同一人物なのだろうか?
着ている物といえば少しくたびれた感じのジャージの上下に、足元は体育館シューズのような上履き。
胸のあたりに見え隠れするやや伸びかけた丸首のトリミングは、どこかの土産物のTシャツのようだった。
天下の百合ノ葉学院音大の教授のイメージが二人の中で大きく崩れ去っていく。
その教授の首にホイッスルをぶら下げれば、いとも簡単にどこかの学校の体育教師に仕立てあがる。
そんな二人の驚きをよそに、鼻歌交じりで慣れた手つきでドリップ式のコーヒーメーカーの器具を操り、手際よくカップに注ぎ分けるその人は、助手の一人も付けずにいつもこうやって自らの手で客をもてなすのだろうか。
「でもうれしいね。ほんとに来てくれるとは思ってもみなかったよ。若い人はなかなかこんな中年の相手をしてくれないからね」
二人の前にカップを並べ、どうぞといい香りの漂うコーヒーを勧めてくれる。
「あ、ありがとうございます。木下……先生。先生のご都合のいい日を教えていただいていたとはいえ、連絡もなしに突然お伺いしてしまって申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした……」
沙紀も康太に合わせるようにして、中腰になって教授に頭を下げている。
「あっ、いいからいいから。そんな堅苦しい挨拶は抜きにして……。そうだ、前に言いそびれていたんだけど、研究室の名前が名刺と違ってただろう? 」
「はい……」
「私は元々星川というんだが、ここ数年、妻の母親の調子が悪くてね。その母親の希望もあって、家業を継いでいる妻がそのまま実家の名前も継ぐことになったんだよ。ややこしいから私も養子ということでこのたび改名することにした。つまり木下というのは妻の旧姓なんだ。ここの学生には星川で名が通っているから、まだプレートはそのままなんだよ。幸い今年の新入生の担当は外れてるので、そんなに混乱は起きていないんだがね。君達、もしかして迷ったんじゃないのかな。悪かったね」
「そ、そうだったのですか。あ、あの……。いきなりこんなことをお尋ねして失礼だとは思うのですが、さっきここから出て来た方が言っていた星川君というのは……」
康太は、まず情報のあれこれを整理していく必要があると感じていた。
さっきからしきりに目や耳に飛び込む星川という名前に、ある繋がりを感じていたのは、きっと隣に座る沙紀も同じだったのだろう。
康太と同じように身を乗り出して、木下教授の返答を待っている。
「あっ、それは私の愚息ですよ。今三年でピアノをやっているのですが、さっきの学生が今度声楽のコンクールに出るにあたって、その伴奏を息子に頼みたいと、私のところに直談判に来ていたわけなんです」
「息子さん、こちらの三年生なんですね。……なあ、沙紀、確か、部活のあの先輩、ここの学生だったよな? 」
康太は、サッカー部のキャプテンだった横田に星川の進学先のことをそれとなく聞いてはいた。
それに星川と言う名はそんなにどこにでもある名ではない。
木下教授の息子である可能性は、この際、非常に高いと言わざるを得ないだろう。
そして、その木下教授と康太の母親の関係も気になるのだが……。
「う、うん。先輩はここの大学に進学したって聞いてる。だから、多分……」
「多分、どうしたのかね? 相崎さん。何でも遠慮せずに聞きなさいよ」
康太に向って返事をした沙紀に、教授が覗き込むようにして声を掛けた。
「で、では、遠慮なく訊かせていただきます。あのう。も、もしかして、息子さんって、北高出身だったりしませんか? 」
沙紀はかなり緊張しているようだ。
けれど彼女も先輩のことはスルーできないのか、核心部分をストレートに教授に訊ねる。
「ああ、そうだが。でもどうして? あっ! もしかして、君も北高出身なのかい? 」
「はい。あの、こう……あ、いや、よ、吉野君も北高なんです」
沙紀が滅多に呼ばない康太の苗字をためらいがちに口にする。
なかなか新鮮な響きに康太の口元が緩みそうになった。
「これはこれは。奇遇だね。いやね、あまり大きな声で言えないが、私も女房も北高OBなんですよ。そうでしたか……。いやはや、世の中広いようで、実に狭い。ということは君達は今大学一年生だから、一年間だけうちの息子と在校期間が重なっていたんだね。じゃあ、二人とも合唱部だったのかな? 」
「いえ。吉野君はちがいますが、あたしは星川先輩の後輩になります。合唱部でお世話になりました」
「ほう、そうだったのか。ならばここにあいつを呼ぼうか、と言いたいところなんだが、あいにく今、短期留学中でね。いや、ピアノではなくて、語学留学なんだ。なんかあいつなりに考えていることがあるんだろう。アメリカに行ってるんだよ。来週あたりには帰国すると思うけどね」
そう言って、目を細める。