90 教授を訊ねて
康太視点になります。
一時限目と午後の四時限目に講義があるなんとも言えない効率の悪い時間割の六月のある日、康太は同じ様に昼の時間を持て余している沙紀を伴って、百合ノ葉学園に向かっていた。
公共交通を使うと教育大からは非常に時間がかかるため、今日は車だ。
大学構内にある駐車場から車を出し、幹線道路を東へと走って行く。
「ねえねえ、こうちゃん。ほんとに行ってもいいのかな? もうあたし達のことなんて忘れてるんじゃない? 」
沙紀は心配そうに康太を見上げて言った。
「確かにあの場限りの社交辞令だったかもしれないな……。でも木下教授の目は本気で言っているように思えたんだけど。名刺にあったアドレスにメールしたら、今日を含めて何日か教授の都合のいい日を知らせてくれたんだ。だから大丈夫だと思う。それにひとつ気になることもあるし……」
「何が気になるの? 」
「いや、俺の思い過ごしかもしれないけど、雅人兄さんがなんかはっきりしないんだ」
「雅人先生と木下教授が何か関係があるとでも? あっ、雅人先生も百合ノ葉出身だったよね。木下教授の教え子だったとか? 」
「俺も同じこと聞いたんだけど、違うらしい。まあ、兄さんが学生の頃と言えば、今から十年以上も前のことになる。その時に教授が百合ノ葉にいたかどうかは定かではないしな。でも兄さんの様子からすると、どうも教授を知ってるようなそぶりなんだ。そして何かを隠してる……」
「うわあっ、まるでミステリー小説みたいだね。それで? それでっ? 」
興味津々とでも言うように沙紀が、ハンドルを握る康太の左腕を揺すって、その先をせがむ。
「おい、そんなに揺するなって」
「あ、ごめん。ついつい……」
「沙紀ときたら、人んちのことだと思って嬉しそうに聞いてるけど、俺は真剣なんだ。俺の勘違いであって欲しいんだけど、実はおふくろ、おやじと結婚する前に、なんかひと悶着あったみたいなんだ。そういうのって、子どもながらに、アレ? って感じるものがあるだろ? 多分、おふくろの過去の相手ってのが、同じ大学の先輩だと俺はふんでいる。まさかとは思うけど……」
「それって……。じゃあ、おばちゃんの元カレが木下教授だっていうの? うわああ……。な、なんか恋愛ドラっぽくない? 」
「……やっぱ、沙紀に言うべきじゃなかったな。何が恋愛ドラマだ! 人の気も知らないで……」
「だって、こうちゃんの推理、めっちゃすごいんだもの。もしそうなら、運命の出会いだよね」
「そんな大げさな。ただな、その相手ってのが声楽やってた人らしいんだ。おふくろは歌曲の伴奏やってたから、当時の楽譜が家にまだいっぱいある。だから相手は声楽家で間違いないよ。でも木下教授の名刺には音楽学部演奏学科ピアノ専攻教授ってなってたから、別人なのかな、とも思うし」
康太の脳内は、少々混乱気味だった。
なかなか繋がらない点と点が散らばっていて、もどかしくて仕方ない。
どうやら探偵の思考回路は持ち合わせていないようだ。
「それに、その楽譜にお袋の旧姓の森山ではない名前が記名してあるのが数冊あるんだ」
「えっ。ま、まさか木下って書いてあるの? 」
「いや、違う。どれも消えかかってて、一冊だけかろうじて読めたのが、ローマ字でshikawaってなってた。士川かあるいは先の方が消えてるから石川とかになるのかな? どっちにしろ木下とは大違いだろ? 」
康太はうーんとうなりながら赤信号で停車した。
「でもさあ、こうちゃん。木下教授、この前言ってなかったっけ。奥さんの実家の都合で名前変わったって……」
「あっ……。そうか。そうだよな」
確かにそんなことを言っていたような気がする。
康太は新しい光が射してきたのを感じていた。
教授の旧姓がわかれば、何かが見えてくるのかもしれないと思う。
これでは沙紀の方がよほど探偵に向いているではないか。
彼女のアドバイスに感謝しつつ、信号の向こうに見える百合ノ葉学園音楽大学の大きな看板に従って右折してキャンパスの中に入って行った。
「うわーー。ここなんだ。やっと着いたね。いつも外から見てるばかりで大学の中に入ったことないから、なんかどきどきする」
「俺も来たことあるって言っても……。そうだ。おふくろと来たのはここじゃない。ここから電車で二駅ほど離れたところにある大学併設の記念ホールだったはずだ。雅人兄さんには何度か学園祭に連れて来てもらったから、来てるはずなんだけど。新しく建った棟も多いから、迷いそうだ……」
康太は思い出すひとつひとつの過去の場面がすべてある一つの答えに向っているようで、落ち着かない。
木下教授と母親の接点が全くないとは言い切れないからだ。
駐車場に車を停め、案内板に従って演奏学科のある建物に向かって沙紀を伴い歩いて行く。
「それに……」
「それに? どうしたの? こうちゃん」
「おふくろは今までずっと大学の話を避けていたように思う。俺が聞けばある程度は教えてくれるけど、自分からは一切学生時代の話をしないんだ。普通、自分の出た学校のことをもっと話すだろ? きっと訊かれるとまずいことでもあったんだろうな。おふくろはここのピアノ科を首席で卒業してるんだ。当時はピアノ科と声楽科と作曲科、器楽科という風にシンプルな区分だったみたいだ。今は学科も細分化されてミュージカルやポップス、ジャズなんかも学べるみたいだけどな。首席って話も、おばあちゃんがこっそり教えてくれたから知っているんだ」
康太は徐々に自分の中に固まっていく結論に、確信めいたものすら感じ始めていた。
もう間違いないのではないかと。
母親と木下教授の間にはきっと何かある。
そんな気がしてならないのだ。
「首席か……。こうちゃんがすごいのはおばちゃん譲りだったんだ。さっすがあたしの夏子先生。そういえばうちのパパなんか、いつも自分の学生時代の自慢ばっかだよ。聞いてもいないのに、ベラベラしゃべってるし。アルバイト三昧だったとか昔はコピーが高かったから手書きの写し取りの早わざは超一流だったとか、キャベツ一玉で何日生き延びたとか。そうそう、バイトで夜も遅くなるから、講義中に効率よく眠る方法を産みだしたって言ってた」
「さ、沙紀……。あのなあ。それは学校自慢じゃなくて、おじちゃんのサバイバル自慢だろ。うちのドイツの叔父とそんなことばかりやってたみたいだな。俺も叔父からその話、何度も聞かされたよ。寒さしのぎに八百屋さんで分けてもらった古新聞と段ボールが役に立ったとか……だろ? 」
「そう、それそれ! って、ごめん。またやっちゃったね、あたし……。なんか知らないけど、いつの間にか話の趣旨がずれちゃうんだよね。今からこうちゃんが耳を塞ぎたくなるような親の過去の事実に直面するかもしれないのに、なんで場に水をさすようなことばかり言っちゃうんだろう。気をつけなきゃ。木下教授の前ではなるべくしゃべらないようにおとなしくしてるから、こうちゃんもあたしが変な方向に調子に乗らないように、見張っててね」
「わかった。でもあまり気を遣うな。緊迫すればするほど、沙紀のユニークな発言が場を和ませてくれるためにも必要になるからな。いつもどおりでいいよ」
「ユニークって……」
「さあて、こんなこと言ってる場合じゃないよな。とにかく中に入って教授の研究室を探そう」




