88 木下教授
康太視点になります。
「まさかこんなところで私好みのショパンに出会えるとは思ってもみなかったよ。本当にいい演奏だった。ところで君はどこの音大の学生かな? 」
メガネの紳士は上着の胸ポケットを探りながら、臆面もなく演奏が終わったばかりの康太に話し掛けてくる。
「いいえ……。音大生ではありませんが。隣の市にある教育大の一回生です」
「ああ。あそこの学生さんか……。では音楽の教師でもめざしておられるのかな? 」
康太は次第に煙たくなってきた。
どうして見ず知らずの男性にここまで根掘り葉掘り聞かれなくてはいけないのかと。
しかし目の前に差し出されたのは、見覚えのある大学名が印刷された名刺だった。
「失礼。名も名乗らずあれこれ訊ねて悪かったね。私は百合ノ葉学園音楽大学の教授のほ……じゃなくて、木下といいます。ははは。最近女房の実家の都合で姓が変わったものでね。なかなか慣れなくて」
ゆりのは? 百合ノ葉学園といえば康太の母親も叔父の雅人もこの学校を出ている。
馴染のある大学名に康太の気持ちは少しだけほぐれ始めていた。
「君の演奏はとにかく良かったよ。音大生じゃないのが信じられないくらいだね。もし良ければ誰に師事しているのか教えてもらえないかな」
「ああ、いいえ……。別に誰に師事してるとかそういうのはないです。ただ小さい頃からピアノ教師の母に指導を受けていました。中学の間は芸大受験の先生の元に二年ほど通いましたが、今は小学校の音楽教師の叔父にたまに聴いてもらう程度で、特別なレッスンは受けてません……」
「う……む。そうですか。いやね、てっきりどこかの名だたる指導者がバックにいるのかと思いましたよ。そうだ。今度うちの大学の私の研究室を訪ねてくれませんか。一度ゆっくり話しがしてみたいものだ。……もちろんそこの彼女もご一緒に」
「えっ? あたしもですか? 」
突然声をかけられた沙紀はびっくりした目をして、康太と顔を見合わせる。
「あなたの演奏も実に良かった。素直な表現で変な癖もなく、聴き心地がよかったですよ。リストもいいが、あなたのショパンも聴いてみたかったですね」
「あ、ありがとうございます」
真っ赤な顔をした沙紀がうつむき加減になり消え入るような声で返事をする。
「そんなに恥ずかしがらずに。いやね、私にもあなたたちより少し年上の息子がいるのですが、いくら同じ音楽をやっていてもなかなか親子では本音で語り合えなくてね。その息子の演奏を聴くのも校内のテストの時くらいで……。ああ、こんなことはどうでもいいんだ。君の名前だけでも伺っておこうかな」
「吉野といいます。で、こっちが相崎です」
「吉野君に相崎さんね。今日はどうもありがとう。それではあなた方のお越しをお待ちしていますからね。では今日はこれで……。佐藤店長! 前に注文してた楽譜なんだけど……」
木下教授は軽く会釈をすると、店長を呼び止めてカウンターの方へ行ってしまった。
「ねえねえこうちゃん、急に話しかけられてびっくりしたよね」
「ああ。ホントに驚いたよな」
「でも、変な人じゃないみたいだし」
「まあな。百合ノ葉の教授って言ってたよな」
手元にある名刺をもう一度ゆっくりと見てみる。
「木下篤弘……か。全く知らない人だな」
「そりゃあ、当然だよ。こうちゃんがあの人のこと知ってる方が不思議だってば」
「まあ、そうだけど。実は、お袋も兄さんも。この百合ノ葉を出てるんだ。だから、全く知らない大学でもないから……」
「そうだったんだ。それって、すごい偶然だね」
「うん。でもまあ、聞いたことのない名前だし、きっとお袋も兄さんも知らない人だよ。にしても、弾いている途中で、お客さんがたくさん集まってきたなと気付いてはいたけど、まさか百合ノ葉の教授まで混じっていたとはな」
「あたしが愛の夢を弾いても、ふうーーんってな感じでみんなスルーだったのにさ、こうちゃんが弾いたとたんあの反響だもんね。わかりきったことなんだけど、あたし、ちょっとショックだったよ。でも、さっきの教授が素直な表現だなんて言って褒めてくれたから、少しは立ち直ったけどね」
沙紀は、本気で褒めてもらったと思い、調子付いているのだが……。
康太にはわかっていた。教授の社交辞令であることも、そして、教授の言葉の裏に込められた真意も。
「いや、まあ、そうだな。裏を返せば、面白味がないというか、平面的というか……」
「えっ? どういうこと? 」
「あっ、何でもないよ。沙紀も練習すれば、もっとよくなるさ」
「なんか、うまく丸め込まれた気もしないでもないけど……」
「さて、どうする? 本当に行ってみる? 教授の研究室に……」
「あたしはどっちでもいいよ。こうちゃんが行きたいのなら一緒について行くし。でも、あの人、案外いい人そうだし、おもしろい話とか聞けるかもね」
「そうだな。あそこの大学は、俺も子どもの頃、何度か行ったことあるし。じゃあ、来月くらいに空き時間見つけて行ってみようか? 」
「うん。そうしよう。なんだか楽しみ」
沙紀は木下教授に褒められたことに気をよくしているのか、次はあたしね……とまたピアノの前に陣取った。
すると康太が沙紀の左横に割り込むようにして座り、彼女の耳元でささやく。
沙紀が小さく頷いてオッケーと言うと、お互いの呼吸を合せて四本の手が鍵盤上に踊り始めた。
ブラームスのハンガリー舞曲第五番。連弾の曲だ。
沙紀が最後に参加した発表会で、高校生のお姉さんと一緒に弾いた曲でもある。
今回は康太がその時高校生が弾いたパートを即興で請け負うことにしたのだ。
一度も彼女と合わせたことはなかったが、康太には全く不安はなかった。
出だしもぴったりと音が揃い、テンポも乱れることなくまるで一人の人間が弾いているかのように音が一つになる。
近くを通りかかった子どもがこれ知ってると言って立ち止まり、リズムに合せて身体を揺らす。
再び観客の輪が広がり、手拍子まで飛び出す。
この時がずっと続けばいいのにと思えるくらい幸せなひと時が、康太の心を満たしていった。




