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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第一章 ショパン 子犬のワルツ
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7 音の扉

 十二月に入り、康太の家のリビング兼ピアノレッスン室に沙紀の背の高さと同じくらいのツリーが飾られ、緑と赤と黄色の電飾がチカチカと点滅を繰り返していた。

 その日のレッスンはとっくに終わったはずなのに、沙紀はレッスン室から離れようとしなかった。

 ピアノの前に立つと、初めて聴いたあの曲を思い出しながら、鍵盤をたどたどしく押さえていくのだ。

 ひとつひとつ、音を手繰り寄せるようにして紡いでいく。

 見よう見まねで何度も何度も繰り返すうち、次第に音が形作られ、もう誰が聴いてもあの曲以外の何物でもないと思えるくらい、はっきりとメロディーラインが浮かび上がっていた。

 隣の部屋にいる夏子の耳にもそれは明らかで、沙紀の音感の良さにただならぬものを感じレッスン室に舞い戻ったのだ。


「沙紀ちゃん。その曲はね、子犬のワルツっていうのよ。高校生のお姉さんが弾いていた曲ね。沙紀ちゃんも弾きたい? 」

「うん! 沙紀も弾く! どうやったらもっと上手に両方の手で弾けるようになるの? 」

「それはね、いっぱいおけいこすればいいのよ。そうすれば誰だってどんな曲だって弾けるようになるのよ」


 沙紀は人差し指を顎に添えて天井を見上げ、ひとしきり考え込むと、にこっと笑って言った。


「沙紀も練習する。そしてあのお姉さんみたいになる! 」


 康太と同じだった。三才になったばかりの頃、レッスンに来ていた小学校高学年の男の子が弾いていたモーツァルトのピアノソナタに興味を持ったのか、小さな手で鍵盤を探り、いつの間にかそのメロディーを奏でていた。

 その時の情景がそのまま隣に住む女の子の身に巻き起こっているのだ。

 身近に音楽がある子どもの誰もがそうなるわけではない。

 音程もそのまま再現する能力は見逃すわけにはいかなかった。


 次の日の朝夏子は、子ども達を送り出した後、春江の家を訪れていた。


「……でも沙紀ったら、幼稚園の時に通った音楽教室では、三ヶ月もたなかったのよ。八人グループで電子オルガンを使って受けるレッスンだったんだけど」


 春江はあきらめにも似た表情で沙紀の体験談を語り始めた。


「練習は嫌いだし、じっと座っていられないし……。ピアノだなんて、とても無理だと思うわ」


 夏子は今までいろんなタイプの子どもと接して来た。

 確かに沙紀のように落ち着きのないと言われる子どもも多く見てきた。

 でも年齢とともに、大概の子どもは落ち着いてくるものだし、興味を持てば自然と集中力も高まる。

 そしてある時期、何かを掴みかけた子の背中をタイミングよく押してやると、目覚ましく進歩することも経験済みだ。

 なんといっても、昨夜の沙紀の集中力は並大抵のものではなかった。

 聴いた音をそのままの音程で忠実に再現できる能力も持ち合わせている。

 それは絶対音感に近いものではないかと夏子は感じていたのだ。

 夏子はとにかく沙紀を自分にまかせてくれないかと、必死の思いで春江に頼み込んでみた。


 逆の状況は過去にもあった。うちの子は才能があるので、どうかレッスンをお願いします、と強引に生徒を押し付けられるのだ。

 嫌とも言えず、引き受けたはいいが、続かなかった子ども達もいた。

 夏子が自分から特定の生徒を育てたいと望んだのは、後にも先にも今回が初めてだったのだ。


「お願いします。才能があるとわかっているのに、知らないふりなんて出来ないんです。今沙紀ちゃんは音の扉を開けたばかりなんです。どうか、その先の世界を沙紀ちゃんに見せてあげるチャンスを、私にくれませんか。相崎さん、お願いします」


 夏子は無我夢中で頭を下げて懇願していた。


「吉野さん。どうかそんなことはなさらないで。顔を上げて下さいな。わかりました。今夜主人にも相談してみます。家には電子オルガンしかないし、ピアノも買わなくちゃならないし、私の一存で決められることではないので」

「もちろんです。よく話し合って下さい。ピアノのことは、心配しないで。うちで練習すればいいんだし。沙紀ちゃんがレッスンを続けたいと気持ちが固まったら、その時に楽器店に掛け合ってみればいいので。状態のいい中古ピアノもいっぱい出回っているの。決して安いものではないけれど、一緒に納得のいくピアノを探せばきっと大丈夫」


 夏子の熱意に負けたのだろうか。渋々ではあるが、前向きに考えると春江が約束してくれた。

 両親の許可をもらい沙紀のピアノのレッスンが始まって二週間ほど経った頃だろうか。

 春江から嬉しい知らせを聞いた。前の音楽教室を辞めて以来、閉めっぱなしだった電子オルガンの蓋が毎日開けられ、沙紀が自ら進んで練習しているとの吉報だ。

 彼女の小さくてコロコロした手から次々と音が紡ぎだされていく様子が手に取るようにわかり、夏子自身も口元が緩んでしまう。

 沙紀はまだ音符が読めない。聴いて覚えたメロディーを思い出しながら鍵盤をたどり、一時間近く電子オルガンに向かっていることも珍しくないらしい。

 これは近い将来、真剣にピアノの購入を考えなければいけないと相談されたのだ。



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