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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第八章 ショパン ピアノソナタ 第三番
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87 ピアノソナタ

 彼は同居人の雅人先生に常々ピアノコンクールにエントリーするようにと脅迫まがいに言われ続けていたらしく、この曲を高二の時から練習していたようだ。

 でも、やはりというか当然というか、部活優先で日々を過ごしていたので日程の調整が付かず、結局、コンクールにはまだ一度も出ていない。

 音大への進学こそ断念したものの、ピアノはずっと続けている。

 が、コンクールに出て、そしてその後はどうするのか? というところで次への一歩が踏み出せないでいるのだ。

 そんな康太を応援したい気持ちはあるのだが、あまりしつこく言うと、日々の練習すら放棄してしまうのではないかという不安もあり、コンクールの件にはあまり触れないようにしていた。

 雅人先生も同じで、最近ではあまりコンクールのことを言わなくなったらしい。

 康太の複雑な心境を逆なですることは決してあってはならないのだが、この曲だけは純粋に今ここで彼に弾いて欲しかったのだ。


 今康太が弾こうとしているショパンのピアノソナタ第三番は、そんな彼の心の中の葛藤をすべて織り込んである縮図のような曲だった。

 大学入試が終わってからは、毎日のようにこの曲をCDで聴いていた沙紀だったが、時には自分自身で演奏を試みるけれど、全く歯が経たないし、練習を積んだところでどうなるものでもないとすでに経験済みだ。

 彼ならきっと難なく弾けるのだろうと予想はしていたが、それは沙紀の想像をはるかに超えた形で思い知らされることになる。

 第一楽章ロ短調の導入部分をあまり重くならないように、あっさりと弾き始めた。

 なるほど、そういう表現もあるのか、とのんきに頷いていられるのも最初のうちだけだった。

 楽譜で言うとまだ三ページ目くらいに入ったばかりで幾らも時間は過ぎていない時だった。

 すでに周りの空気が明らかに変わり始めているのを沙紀ははっきりと感じ取っていた。

 何気なく振り返ってみると、さっきまで数人しかいなかったはずの客が、瞬く間に何十人にも増え、店員までもがピアノのそばににじり寄ってきている。

 そして皆、康太の演奏に聴き入っているのだ。


 左手のアルペジオに合わせて奏でられる、うっとりするような右手のあまりにも美しいメロディーがフロアに満ち始めた時だった。

 康太にも観客が取り巻いているのが察知できたのだろう。

 自分に陶酔するばかりでなく、次第に聴き手側にも音のカーテンが広げられて、一音一音に憎いほどの色付けがされていくのがありありとわかる。

 たった一人の沙紀に聴かせる時でさえ、康太はいつもそうやって音の扉を開くのだ。

 もう間違いない。

 彼は、音の表現者として必要な物を、生まれながらにして備えている。

 そして、今日もまた沙紀の目にはっきりと見えたのだ。

 康太が大きな舞台で大勢の観客に見守られて演奏している姿が……。


 最後のフォルテッシモの和音が奏でられると、一斉に拍手が沸き起こった。

 いつの間にか沙紀の横に陣取っていた佐藤店長のカスタネットの響きにも負けないくらいの大きな拍手に、沙紀も負けじと手を叩き続ける。

 みんなの拍手は一向に鳴り止まず、それはまるでアンコールを期待するかのようなうねりを響かせる。

 すると康太は一度立ち上がり座りなおすと、間髪いれずに突如力強いカデンツを弾き始めた。 

 佐藤店長が、四楽章……とつぶやいた後、息を呑むのが沙紀にも伝わる。

 沙紀のお気に入りがさっきの一楽章ならば、今彼が弾き始めた四楽章は康太の一番得意とする場面でもあるのだろう。

 一楽章の甘美でとろけるようなメロディーに対して、荒々しく、熱情的なこの四楽章は、荘厳で、猛々しいという表現がいかにもぴったりな、しかも技術的にもかなりの難曲に分類される。


 あまり大袈裟なパフォーマンスを好まない康太であるにもかかわらず、この曲に関しては、途中で座り位置を変える程彼の身体が動き、顔の表情も激しく変化する。

 本人は気付いていないのかもしれない。

 ありのままの自分の内面をさらけ出して演奏する康太の姿を見ることが出来る、唯一の曲であるということに。


 息つく暇もないほど、鍵盤の上を康太の指が動き回り、誰もが微動だにせず、立ち去る者も誰一人いない。

 最後のコーダまで勢いが衰えることなく、見事に弾ききった。


 沙紀は康太がとても誇らしかった。

 普段は少し優柔不断なところもあって、あまり男臭さを感じさせない彼なのだが、サッカーでフィールド内にいる時にも増して、ピアノを弾く康太は、全くの別人になる。

 今、目の前にしている名器にも負けない演奏ぶりに、沙紀は熱くなった目頭をハンカチでそっと押さえた。


「沙紀ちゃん、彼は随分成長しましたね」


 佐藤店長が、康太を見ながら沙紀に話しかけてくる。


「すでに大人の男性としての幅のある表現力まで身に着けておられるようだ。吉野先生がご主人と共にドイツに渡られてから康太くんは一人日本に残っていると聞いています。そんなハンディすらも彼は自分のスキルに替えて行ってるのでしょうね。沙紀ちゃんが彼を支えているのですか? あの小さかったお二人がこんなに素敵なカップルになられて、私も感無量です。長生きもしてみるものですね」


 佐藤店長が目を潤ませてそんなことを言う。

 素敵なカップルとか言われて返事に困ってしまうが、店長の目も耳もごまかせなかったと言うことだ。

 店内では決して彼とベタベタしていたわけではないのだが、すべて見抜かれていることに驚くと同時に、康太に対する最上級の褒め言葉までもらえたことに、沙紀の喜びはますます高まりを見せる。

 店長は穏やかで、いつも笑顔を絶やさない人格者として認知されているのだが、滅多に人の演奏を褒めないことでも知られている。

 その店長が康太を称賛したのだ。

 今すぐにでも夏子先生に報告したかったし、彼自身にも伝えたい。

 さっきよりも一層大きな拍手が沸き起こる中、突然五十代くらいのメガネをかけた背の高い紳士が康太のそばに近づいて来るのが見えた。


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