86 ピアニスト気分
佐藤楽器店を介して夏子がピアノ教室を開いていた関係上、康太も沙紀も店長とは子どもの頃から顔見知りでもある。
沙紀から見れば店長は昔からずっと同じ感じだと思うのだが、沙紀自身は店長の言うようにそんなに変わってしまったのだろうか。
自分では全く変化などないと思っているのだが、確かに身長も伸びたし、ヘアスタイルも違う。
大学に通うようになって化粧も覚えた。
内面はともかく、外観は少しは変わったのかもしれない。
「さあ、こちらへ……」
康太が佐藤の指示する方に向って歩き始める。
ハッと、我に返った沙紀は、小走りになりながら二人の後をついて行った。
そこはピアノが何十台も展示してあるフロアの一番奥の台座の上だった。
でんと置いてある、その大きな黒く光る物体は……。
どこをどうみてもグランドピアノ以外の何物でもない。
コンサート用のスタインウェイだった。
「こ、これって……」
沙紀はピアノに近寄り、心の中で言ったはずなのに無意識のうちにつぶやいていた。
「そう。スタインウェイだよ。今日は佐藤さんのご好意で閉店まで借りてるから、思う存分弾かせてもらえるぞ。この近くのすずかけ音楽ホールの改修工事が始まって、その間この店で保管しておくことになったらしいんだ。店長はピアノの調律も出来るから、それで調整後の仕上がり具合のチェックも兼ねて弾かせてもらえることになった。沙紀も初めてだろ? 何か弾いてみろよ」
そんな、突然弾けと言われても……。
沙紀は躊躇しながらも、見上げた康太の目が、さあ早く弾いてみて、と言っているのを痛いほど感じ、何も考えないままピアノに向かい、ただひたすら指を動かし始めた。
それは音階練習のための四オクターブのスケールだった。
右手と左手を同時に、ドレミファソラシドと、音階を駆け上がるあれだ。
かなり音の粒も揃い、日頃の練習の成果が出ているいい演奏にはちがいないのだが……。
ぷっ……と噴きだした康太は沙紀の肩に手を添えて、優しく諭すように話し出す。
「おい、沙紀。スケールも結構だけど、いくら閉店まで借りてるっていってもそんなに時間があるわけじゃないんだから。何か曲でも弾いたら? 別に間違ってもいいから、気にせず好きな曲弾けよ。めったにないチャンスだから」
「あはは。そうだね。あたしったら何やってるんだろ。じゃあ……。リストでもいい? 」
「ああ。愛の夢……だよな? 」
「うん」
沙紀はいつも康太に言われているように、余分な身体の力を抜き、心を込めて最初の一音を奏でる。
低音部の深みのある音色に高音部の突き抜けるような澄んだ響き。
いつも家で弾いているアップライトピアノはもとより、康太の家にあるグランドピアノともまた違った音の広がりに、胸のどきどき感が一向に治まらない。
ああ、なんという素晴らしい響きなんだろう。
鍵盤も重くなく、沙紀の指に丁度いい具合だ。
左手が交差する箇所もなめらかに音がつながる。
最後のピアニッシモが大きくなりすぎないよう、神経を集中して弾き終えた。
途中、何箇所か間違えたが、あくまでも突然の演奏なのだし、大目に見てもらえるだろう。
もちろんレッスンでもないので、康太のクレームが付いて中断させられることもなかった。
フロアには何人かの客がいたが、足を止めてまで聞き入る人もいない。
沙紀は緊張することなく、なんとか最後まで弾き通せたことにそれなりに満足していた。
「こうちゃん、どうだった? 」
やはり康太の感想が気になる。
いつものように気難しい顔をしている様子もなく、褒めてくれそうな予感がする。
これは期待してもいいのだろうか。
「やっぱ音がいいよな。全然違う。うちのピアノよりずっと弾きやすかっただろ? 」
「うん。確かに弾きやすかった。それに、こんなきれいな音が出るのって、すっごく気持ちがいいよ……ってやっぱり、褒められるのは音だけだよね。あたしの演奏テクニックはまだダメかな? 」
そこまで高評価を期待していたわけではないけれど、前より随分良くなったとか、ミスタッチが少なくなったとか、他にも褒めようがあるだろうにと思ってしまう。
「ははは。ゴメン、ゴメン。悪くはないよ。でも今ここで細かいこと言っても仕方ないだろ。まずはミスタッチをなくさないとな。それに、強弱もはっきりとつけないと。でも急に弾いたわりには良かったと思うよ」
「はいはい、わかりました。もっと練習して、出直してきます……ってことで。じゃあ、次はこうちゃんの番だよ。そうだ、あれ弾いてよ。コンクールのためにって練習してたあれ」
やはり、彼の耳はごまかせなかったというわけだ。
次回のレッスンでは、ここで言いきれなかった事を沢山指示されると思う。
いくら素晴らしいピアノであっても、技術や表現力がいきなりアップするわけではないと言うことが身に染みてわかった。
ならば次は彼に弾いてもらおう。
コンクールに備えて準備しているあの曲を是非とも聴いてみたかったのだ。
彼の家のレッスン室に入る前に練習しているのを耳にすることがあるくらいで、まだ全部を通して聴いたことはない。
けれど、一度聴いただけでそのメロディーに心を奪われてしまった沙紀は、家でお気に入りのピアニストが奏でるその曲のCDをずっと聴き続けている。
「ああ、あれか。でも長いぞ」
「一楽章だけでいいから。ね、お願い。あたしさ、今じゃバラードより、この曲の方が好きになっちゃって。一生かかったって自分で弾けそうにないから、是非ともこのピアノで弾いて聴かせて欲しいんだ」
沙紀は胸の前で両手を組んで、お願いのポーズを取った。




