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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第八章 ショパン ピアノソナタ 第三番
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85 仕返しの仕返し

「沙紀。今日はバイト、入れてないんだろ? 」


 二人が住んでいる市の近くまで戻ってきた時、ようやく長い沈黙を破って、康太が沙紀に話しかけた。


「ちょっと寄りたいとこがあるんだけど、いいかな? 」

「えっ? 」


 沙紀はビクッとして返事に詰まる。


「だ、だめかな? 」

「ああ、いいけど……どこ? 」


 沙紀はあれ以来、康太が何も話さずに運転している間、今日のこれまでの出来事をいろいろ振り返っていた。

 祖父母のこと、康太のこと、そして自分の将来のことをじっくりと考えていたのだ。

 だから康太の突然の問い掛けに心の準備が出来てなくて、つい驚いてしまった。

 まだホテルの誘いのことを引き摺っていて、牽制しているように受け取られたのだろうか。


「さ、沙紀っ……。決して変なところじゃないから。さっきのこと、まだ気にしてるんだろ? ごめん、あのことはもう忘れてくれ……頼む。本当にごめん」


 沙紀がすっかり防御モードになっていると誤解しているのか、康太は必死になって自分の行き先の正当性を訴えて、ただひたすら謝る。


「こうちゃんったら、何あわててるの? そんなに謝らないでよ。あたしは別に気にしてないよ。でもね、ホントのこと言えば、ちょっぴりホッとしたんだけどね。で、どこに行くの? 」


 沙紀の本心を理解したのか、康太はああよかったと言ってふうっと息を吐き、高速を降りて市の中心部へ向っていった。

 そこは沙紀もよく来る街だ。

 翠台(みどりだい)からは電車で五駅ほど離れているが、銀行があってデパートがあって、市の中心部とも言える、賑やかな街になっている。

 昨年建ったばかりの高層マンションの奥を右に行けば、そこは……。


「わかった! 佐藤楽器店に行くんでしょ? 」


 沙紀は小さい子どものように目を輝かせて、康太に向って得意げに胸を張る。


「当ったりーー! 賞金百万円! 」


 康太も沙紀に負けずにおどけてみせる。


「はいはい、百万円ね。それはそれはどうも。気持ちだけ頂いておくね。それで、何の用なの? 楽譜でも買うの? 」

「それは内緒。行ってからのお楽しみ」

「ええ! そんなのずるいっ! 教えてよ。ねえ、教えて」

「ダーーメ! ……っと、確か駐車場は店から少し離れていたよな? 」


 康太はきょろきょろと辺りを見回しながら、ゆっくりと車を進めていく。

 そして佐藤楽器店駐車場という看板を見つけると、ハンドルを右に切って駐車場に乗り入れ、何度かバックを繰り返して車を停めた。


「さあ、行くぞ」


 車を降りて、沙紀の手を取ろうと康太が差し出した腕に、突如沙紀がぶらさがるようにしてしがみつく。


「お、おい。沙紀っ! みんなが見てるぞ! 」


 地元の、それも人通りの多い街中でそんな風にして歩いたことなどなかったので、あまりに大胆な沙紀の行動に康太の方が尻込みしているのだ。


「だってえ、こうちゃんったら楽器店で何するのか教えてくれないんだもん。あたしのささやかな仕返しだよーーん! 」


 康太を見上げた沙紀は、ニコッと最上級の笑顔を彼に向けると、それ以上は何も言わず腕に寄り添ったまま歩く。


「こんなことならさっきの計画、実行しておけばよかったなあ。ほんと沙紀には今日一日、振り回されっぱなしだ……」


 康太がしがみついている沙紀の腕を無理やりほどくと、今度は肩に手をまわしてくる。

 そして、ギュッと彼のそばに引き寄せられた。

 これ以上ないくらい、近くにくっつくような形になる。

 すると今度は沙紀があわてる番だ。

 ますます引き寄せる力を強める康太に、ちょ、ちょっと、こうちゃん、……ともごもご言いながら身体をくねらせる。


「仕返しの仕返しだ。あきらめろ……」


 沙紀の耳に康太の唇が触れんばかりになりながら、そんなことを言う。

 まるでパリの路地を歩く恋人たちのように、二人はすずかけの街路樹の下を寄り添いながら歩いてゆくのだった。

 沙紀の心音がついに本日の最高音量を記録した瞬間でもあった。


 佐藤楽器店の正面入り口が見えた。

 さすがにこのままの状態で中に入るのはまずいだろうと思うと同時に彼もそのように判断したのだろう。

 すっと離れると、見ず知らずの他人のようなそぶりで、何もなかったようにして店内に入っていく。

 打ち合わせをしたわけでもないのに、こんなところでも変に息の合う二人。

 沙紀は満足げに彼を見ると、肩をすぼめてクスッと笑った。

 

 二階のピアノコーナーのカウンターに、沙紀も知っている馴染みの笑顔の人が立っていた。


「いらっしゃいませ。そろそろいらっしゃる頃かとお待ち申しあげておりました」

「ああ、どうも。今日はわがまま言ってすみません。……例のもの、入ってます? 」

「はいはい予定通りですよ。それはもう思った以上にいい状態で……。調整も済ませてますのでどうぞ弾いてみてください。今日は吉野さん以外に予約は入っていませんので、ゆっくり使って頂いて結構ですよ。あの……。失礼ですが、ご一緒の方はもしかして……」


 店長の佐藤は沙紀を見てなつかしそうな目を向けている。


「沙紀ちゃん……ですか? 吉野先生の秘蔵っ子の沙紀ちゃんですよね」

「そうです。でも、彼女は時々ここに来てるはずですが……」

「はい、多分お会いしてるとは思うのですが、お見かけするたびに大きくなっていらっしゃるし、女性は尚のこと美しくなっていかれるから、私なんぞの目ではどなただかわからなくなってしまうんですよ。耳ならば誰にも負けないんですがね……」


 沙紀はそんな二人の会話を斜め後ろで聞きながら、愛想笑いを浮かべることしかできない。

 自分のことなどどうでもいいから、早く康太がここに来たわけを知りたいのだ。

 どうぞ弾いてみて下さいっていうことは……。

 やっぱりピアノだよな? と思いながらも、まさかピアノを買い換えるわけがないし、沙紀の頭の中は混乱するばかりだった。


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