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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第七章 グリーグ ピアノ協奏曲イ短調
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78 ノルウェーの調べ

康太視点になります。

大学生になった二人の物語がスタートします。

 新入生歓迎コンパも一通り終え、大学生活はこういうものか……となんとなくわかりかけた五月の下旬のある日、早々に免許を取った康太が、父親の置いていった車を運転する日が多くなった。 

 もちろん隣には雅人が陣取り、あれこれ指示されるものだから、面白くない。

 バイク乗りの雅人だが、車にも目がない。

 が、教習所の先生に負けず劣らず適格な指示を仰いでくれる事に関しては、反論の余地はない。


「雅人兄さん、もう大丈夫だよ。今日から一人で運転するから」

「何言ってるんだ。まだまだだろ? 俺の運転技術をすべて伝授するまでは、黙って、しもべでいなさい」

「もう充分だよ。いつまでも兄さんに甘えていられないし……」

 

 そんなやる気満々の雅人の好意を断るのに苦労したが、このままではいつまでたっても目的を達成することはできない。

 康太は沙紀のたっての願いを叶えてやるためにも、今日はどうしても雅人に遠慮してもらう必要があったのだ。


「……ったくしょうがねえなあ。ちょっとハンドル握れるようになるとコレだからな」

「だから、大丈夫だって」

「まあ心配するほど事故は起こらないだろうけど、くれぐれも気をつけろよ。どーせ、沙紀ちゃん連れてどっか出かけるんだろ? 」


 鼻の下を人差し指でポリポリ掻きながら、雅人お得意の厭味の応酬が始まる。


「別に誰とどうしようが兄さんには関係ないだろ? さあ、早く降りてくれよ」


 もうすぐ沙紀との待ち合わせの時刻になる。

 こんなことで時間を取っている場合ではないのだ。

 雅人は康太に急かされるようにして、しぶしぶ助手席から降りると、フンと鼻を鳴らし力任せにドアを閉める。

 日曜参観の代休で朝から暇を持て余している雅人は、頼みの甥っ子にも相手にされず、心なしかしょんぼりと一人家に戻っていったのだった。

 康太は車をひとつ奥の路地に進めて、そこで改めて沙紀に連絡を取る。


「もしもし、あっ、俺だけど。今、奥の路地にいる……。後は昨日の打ち合わせどおりでいいな? 待ってるぞ」


 それだけ言って電話を切ると、カーオーディオのFMの周波数を合わせ、流れてくる音楽に耳を傾けながら、シートにもたれて沙紀が現れるのを待った。

 康太の耳に届くその曲はグリーグのピアノ協奏曲だった。

 彼はそれに気付くと身体をシートから起こし、じっとその音に聞き入った。

 誰の演奏だろう。康太の一番好きなピアノコンチェルトだ。


 夏子がラフマニノフの二番に傾倒しているのをよそに、反発したわけではないが、どういうわけかこのグリーグのコンチェルトが子どもの頃から彼の心を捉えて離さない。

 北欧の作曲家ならではの重みのある音の響きや曲の構成が、なぜか康太の魂を大きく揺さぶるのだ。

 自然と膝の上で指が動き始める。この曲をオーケストラと共演できたなら本望だとも思う。

 あれほど考えて、考え抜いて決めて、飛び込んだ教育の世界なのに、康太はまだ心のどこかで音楽を追い求めているのだろうか。


「……ちゃん、こうちゃん。開けて! ここ開けてよ」


 助手席のドアを叩く音でようやく我に返った康太は、あわててロックを解除する。


「もうっ! なんで閉めてるのよ」

「ゴメン。ちょっと、これ聴いてたら、その、没頭しちゃって……」


 沙紀はプリプリと怒りながらもシートにするりと身体を忍び込ませると、しばらくの間、コンチェルトを聴いているようだった。


「あ、これ。ピアコンだよね? 聴いたことあるけど、タイトル、何だったっけ? 」

「グリーグのイ短調だよ」

「ああ! 知ってる。中学の時、音楽の授業で習った。そういえばこうちゃん、前からこの曲好きって言ってなかった? 」

「当たり! たまたまスイッチ入れたらこの曲だったんだ。俺が我を忘れて夢中になるの、沙紀ならわかるだろ? だから許して……」

「しょうがないなあ。ホントにこうちゃんったらピアノのことになると、あたしのことなんか眼中になくなっちゃうんだもんね。やっぱ、音大に行くべきだったんじゃないの? 」


 沙紀の口から、自然にそんな言葉が出てきた。きっと悪気はないのだろう。

 けれど、それは康太にとってあまり言って欲しくないフレーズでもあった。


「なあ、沙紀。今ごろになって、そういうこと言うんだ……。俺なんかドイツでもどこでも行ってしまえって? 」

「ち、ちがうよ。ただ、ピアノがそんなに好きならって……そう思っただけ。こうちゃんがドイツに行ってしまうのはイヤ。それだけは絶対にイヤッ! 」


 沙紀は首を大きく振って、駄々っ子のように否定する。


「よろしい。今後は禁句だからな。音大のことは俺の前では絶対に言うな。別に音大に行かなくてもピアノは弾けるし、これから先、教師になれたら子どもたちにピアノの素晴らしさを広めて伝えることは出来るから。何もピアニストになるだけが俺の進む道だとは思わない」


 それはまるで、康太が自分自身を納得させるために言ったかのようだ。

 いや、まさしくそうなのかもしれない。

 教育大に進学した今になっても、音楽への気持ちは無くなるどころか、以前にも増して思いが募っている。


「さーて、お沙紀ちゃん。いよいよ出発といきますか。初めての遠出だからな。緊張してないと言えばうそになる。なあ沙紀、どうする? こんな若葉マークの俺に命預けて大丈夫ですか? 」

「誰だって最初は若葉マークなんだから」


 そう言って、沙紀がにっこりほほ笑む。


「それはそうだけど。じゃあ、お言葉に甘えて、運転させていただきますが。で、おばちゃんは、何も言わなかった? 」


 最近、沙紀の母親が彼女の行動をいろいろと詮索するらしい。


「うん。なんとかごまかせた。いろいろ訊かれたけど、大学でレポート仕上げてくるって適当に言っておいた。バイトもうまく調整できたし、何としても今日はこのミッションをやり遂げて欲しいんだ」

「よし。わかった」

「こうちゃんの運転を信じてる。すべて任せるから、遠慮なく出発して」

「では、まいりますか」


 ハンドルを握り、前方、後方、両サイドのミラーを確認して、ゆっくりとアクセルを踏む。

 我ながらとても初心者とは思えないほど、滑らかなスタートがきれたと思う。


 ジーンズにポロシャツという沙紀のラフな格好からもわかるように、これから行く目的地も沙紀にとっては気の張るようなところではない。

 ただ、康太には少し、いや、かなり敷居の高い場所なのだ。

 けれど沙紀の望みとあれば、何を差し置いてでもそれを叶えてやりたいと思う。

 康太はこれまで以上に沙紀に溺れていく自分を、もう止めることはできなかった。


読んでいただきありがとうございます。

もうすぐ2019年も幕を閉じようとしています。

2020年、オリンピックイヤーを迎えるまであとわずかになりました。

年末年始は更新が不定期になりますこと、ご了承願います。

来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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