6 めばえ
休日の昼下がり、沙紀は子ども部屋で本を読んでいた。
学校で習った漢字の数も増えてきて、さし絵の少ない小さめの字の本も、すらすらと読めるようになってきた。
というのも、秋が深まり北風が吹きだしたこの頃、バッタやトンボもあまり姿を見せなくなり、思うように虫取り遊びが出来なくなってしまったからだ。
図書館で借りた本を読んで過ごす遊びは、美ひろに教えてもらった。
美ひろは幼稚園の頃からすでにいろいろ読んでいたようなので、おもしろい本を次々に紹介してくれる。
初めは沙紀にはまだ理解できないものもあったが、この頃は随分楽しめるようになってきていた。
今読んでいるのはロビンソンクルーソー。
物語の真ん中くらいまでいったところで、どこから聞こえてくるのだろう、心地よい音楽が鳴り響き、沙紀の耳をかすめていく。
とても小さな音なのだけど、すぐ近くから聞こえてくるような気がするのだ。
本を閉じ、部屋のドアを開けて一階の様子を伺ってみた。
「…………」
何も聞こえない。
母親が台所で洗い物をしているのだろう。
食器が、ガチャッと鳴る音と流れる水の音しか聞こえてこなかった。
ドアを閉めて机の前に座わり直すと、やっぱりさっきと同じ音楽が聞こえる。
もしかしたら外から聞こえるのかもしれない。
沙紀は机の横の窓をそっと開けてみた。
するとさっきより幾分音が大きくなったような気がする。
それでもそれはとても小さな音。
じっと耳を澄まさなければ聞こえない音だった。
あたりを見回しても何も変わった様子はない。
窓枠に肘をついて、しばらくの間、そのどこからともなく聞こえてくる優しい音色に耳を傾け聴き入っていた。
すると急に目の前の隣の家の窓が、がらっと開いたのだ。
何の前触れもなく、景色が変化する。
あまりにも突然の出来事にびっくりした沙紀は、窓枠についていた肘をガクンと滑らせて、その反動で部屋の中にひっくり返ってしまった。
目前で起こった超常現象に一番驚いたのは、いきなり窓を開けた隣の住人だった。
「沙紀ちゃん? 沙紀ちゃん! あれ? どうしたの? どこに消えたの? 」
今そこにいたはずの沙紀が突如姿を消したのだ。
当然、隣の住人は目が点になる。
「沙紀ちゃん! 大丈夫? ねえ、沙紀ちゃん! 返事して! さきっ!! 」
よく知った声が何度も沙紀の名前を呼び続けている。
やっとのこと腕をさすりながら沙紀が窓から顔を出した。
「あれ? こうちゃんのお部屋、そこだった? 」
沙紀は今自分が巻き起こしたドジな失態などそ知らぬ顔で、なぜ康太こそそんなところにいるのかと、さも不思議そうに首を傾げるのだ。
たしか康太の部屋は、沙紀の部屋から見えない向こう側にあったはずだ。
何度も遊びに行っているから間違いない。
きょとんとした顔をしてこちらを見ている康太に怪訝そうな視線を投げつける。
「沙紀ちゃん……。急に消えちゃうからびっくりしたよ。手、大丈夫? 」
「ああ、これくらい、平気だよ。肘のところがズリッてなっただけ……って、そうじゃなくて。だから、なんでこうちゃんがそこにいるの? 」
とにかく沙紀は、なぜ康太がそこに現れたのかが知りたくてしかたない。
「昨日こっちに部屋を替わったんだ……」
ちょっと照れくさそうに頭をかきながら、康太は部屋を移動した理由を話し始めた。
前まではリビングの真上が康太の部屋だったが、毎晩遅くまでピアノのレッスンがあるので少しでも音の静かな部屋にと母親が移動を勧めたらしい。
それで、リビングから離れた沙紀の真ん前の部屋に移動して来た、ということのようだ。
「へえー。机とか運ぶの大変だったでしょ? 言ってくれたらお手伝いに行ったのに」
痛い腕のことなどすでに忘れてしまった沙紀は、トレーナーのそでを巻くって、力こぶを見せようと腕に力をこめる。
「そんなのいいよ。女の子に手伝ってもらわなくても、僕は一人で出来るから。沙紀ちゃんより僕の方が力こぶ、あるし。それにね、お父さんも手伝ってくれたし」
「でもこうちゃんよりあたしの方が力持ちだよ。絶対にあたしの方が力こぶも大きいもん。背も高いし、体重だって勝ってる。あたしの方が! 」
沙紀は少し鼻を高くしながら得意げにそう言ってみせた。
「わ、わかった。今度部屋を替わる時は、沙紀ちゃんに手伝ってもらうよ。そうだよね。いつだって、沙紀ちゃんの方が重いものも持てるし、動かせるし。ああ……。僕ってなんで女の子に負けてるんだろ……」
康太がしょんぼりと項垂れている時だった。
「あっ! わかった! 」
沙紀は急に顔をパッと輝かせたかと思うと、澄んだよく通る声で叫んだ。
「こうちゃんちのピアノの音だ! 」
突然そんなこと言われても何のことかさっぱりわからない康太は、くるくると表情の変わる目の前の沙紀の様子を不思議そうに眺めていた。
「ねえねえ、今聞こえてる音楽は、こうちゃんちのピアノの音だよね? 」
沙紀はまるで宝物を見つけた海賊のように、意気揚々と康太に訊ねる。
「そう……だけど。うるさいかな? ごめんね。お母さんに言っとくね」
康太は困ったような顔をして上目遣いに沙紀を見ている。
「ううん。そうじゃなくて……。きれいな音楽だなあと思ってたんだ。とても小さな音だから、どこから聞こえるんだろうって、ずっと考えてたの」
「じゃあ今からうちにおいでよ。レッスン中だけどピアノの部屋の中に入らなければ怒られないし、隣のキッチンからだとここよりも、もっとよく聞こえるからね」
「わかった。じゃあすぐ行く! 」
読み主のいなくなったロビンソンクルーソーが、机の上にポツンと放置されたまま、どどどどっと階段を降りて行く足音だけが空っぽの室内に鳴り響く。
「ちょっと、こうちゃんちに行ってくる! 」
今、お隣のおばちゃんはお仕事中だから行ったらダメだよと母親が止めるのも聞かず、沙紀は瞬く間に外に飛び出して行った。
玄関で待ち構えていた康太と弟の翔太が沙紀の手を引いて、こっちこっちとキッチンにあるドアの前に連れて行った。
そのドアはピアノ室に続くドア。
耳を直接当てると、ピアノの軽やかな音が聞こえてくる。
踊りたくなるような、とても楽しいメロディーだ。
ポチと一緒に走り回りたくなるような音楽だった。
少しこもったような音色だが、さっきよりはよく聞こえる。
三人の子どもの頭がドアにぴったりくっついてそのまま何分たったのだろうか……。
ドアのレバーがゆっくり回ると、レッスン室の内側に戸が開き、そのまま三人の子ども達が部屋の中にどどっと倒れこんでしまった。
「まあまあ、あなたたち。外の様子が気になって見てみたら。こんなところで何してるの? 」
あわてて起き上がった沙紀と康太と翔太は気まずそうに夏子の顔を見上げる。
二人はそこにいた理由を夏子に話すと、それなら、とレッスン室の中に入れてもらえる事になったのだ。
四歳になったばかりの翔太も二人に混じって、大人しく聞いている。
高校生のピアノのレッスン中だったが、今までこのような場に居合わせた経験がなかった沙紀にとって、目の前で繰り広げられる光景は、とても新鮮で胸の奥に響くものだった。
その日から夏子のピアノのレッスンのある日にはたびたび沙紀が部屋の片隅に現れるようになり、音楽に合せて身体を揺らしながら、熱い視線をピアノに向かって注ぐようになっていった。
読んでいただきありがとうございます。
ようやく二人の場面にたどりつきました。
次第に距離を縮めて行く二人の様子を楽しんでいただけたら嬉しいです。