75 凍てつく指先
もうすぐセンター試験だというのに、日本列島をインフルエンザ前線が猛スピードで駆け抜けていく。
昨日は西かと思えば、今日は東と、各地で流行している様子がニュース番組で流れる。
正月早々康太はこのインフルエンザにかかり、三日間寝込んだあともずっと咳が続いていた。
沙紀にうつしたら大変だからと、お見舞いすら拒否されていて、もうかれこれ十日以上も至近距離で会っていない。
もちろん、クリスマスに決意したオアズケ事項もきっちり守っているため、ますますうつらなかった、というかうつるすべもなかったのだ。
男所帯の隣の家を気遣って栄養のある夕食の世話をし、康太の体調の回復に一役買ったのは母の春江だった。
夫の無二の親友の弟家族なのだから、出来る限りのことをしてあげたいと、春江は労力を惜しまなかった。
いや、沙紀から見れば、康太の隠れファン第一号を自称するミーハーなおばさんが、たまたま沙紀の母親だったというだけのことだ。
彼との交際を隠している以上、沙紀が表立って康太に手を差し伸べられないので、春江の行動力には感謝しかなかった。
彼の心がけが良かったのか、春江の気配りが功を奏したのか、はたまた沙紀のラブラブ禁止作戦が実を結んだのか、何がベストだったのかは定かではないが、沙紀はもちろんのこと、康太もほぼ体調が整い、センター試験前日を迎えていた。
出来る事は全部やったと沙紀も後悔はなかった。
受験票と筆記用具を再確認し、今夜は早く休もうと入浴の準備に取り掛かった時、玄関のチャイムが鳴った。
春江がエプロンで手を拭きながら、インターホンで二言三言交わし、小走りで玄関に向う。
「あら……じゃない。……なの。ちょっと待っててね」
沙紀はセーターを脱ぎながら玄関での春江の会話を途切れ途切れに聞いていた。
玄関のドアが開いた瞬間、情け容赦なく脱衣所にまで冷気が流れてくる。
うっ、さぶ……。沙紀はあまりの寒さにインナーを脱ぐのをためらっていると、そこに春江がやって来て、頬を紅潮させながらまくしたてるのだ。
「沙紀、さーきー! 」
「なに? 」
「ああ、良かった、まだお風呂に入ってなかったのね。そんな格好してないで、早くセーターを着て! 二丁目の山本君が来てるわよ。なんか明日のセンター試験のことで連絡があるとか……」
「えっ? 山本君? 」
「そうよ」
沙紀は慌てて裏返ったセーターを元にもどし頭からかぶり、髪を手櫛で整えて玄関先に向った。
「山本君……。どうしたの? こんな時間に」
門の横に立っていたのはいつもの伊太郎だった。
ダウンジャケットに身を包み、鼻と耳を真っ赤にして少しはにかむようにして沙紀を見ている。
「ごめん。ちょっといいか? 今から出れる? 」
沙紀はこの状況が理解できないまま、玄関脇に掛けてあるベンチコートを取りに戻ると、「ちょっと出てくるね! 」と春江に声をかけ、伊太郎と連れ立って夜道を歩き始めた。
「山本君……。こんな夜更けにどうしたの? びっくりするじゃない。あと少し遅かったら、あたし、お風呂に入っちゃってるところだったよ。メールくれたらよかったのに」
「ごめん……。メールじゃ、ちょっと。あの角の公園のベンチのところまでいいかな? 」
「うん……」
いつもと違って口数も少なく、どこか元気の無いようにも見える伊太郎の後を、沙紀は黙ってついて行った。
冬の夜の公園はひっそりとしていて誰もいない。
街灯の下のベンチにポケットに手を突っ込んだまま座った伊太郎が、沙紀にも座れと目で合図をする。
そして、彼がポケットから何やら封筒のような物を取り出した。
「これ……。相崎にやるよ」
そう言って手渡された封筒の中身は、数枚の写真だった。
「それ、秋の最後の試合の時の写真。整理してたら出てきたから、おまえにやろうと思って」
確かに去年のサッカー県大会決勝の時の写真だった。
沙紀は合唱部で構成されたにわかブラスバンド応援要員として大太鼓を叩いていた。
その時の様子がそこに写し出されている。
惜しくも一点差で負けて、全国大会への切符を手にすることが出来なかった、あの時の写真だ。
この試合で、康太も初めて先発メンバーに選ばれ、キーパーを任されたのだ。
忘れもしないあの試合だ。
でもどうして今なんだろう。明日はセンター試験がある。
何も今夜でなくてもいいのにと沙紀は不審に思いながら伊太郎を見た。
「何? 俺の顔に何かついてる? 」
「い、いや、そうじゃなくて。……あ、ありがとう。もらっとくね」
沙紀はそれをベンチコートのポケットに仕舞うと、白い息を吐く口元に自分の冷えた手を温めるように持っていき、擦り合わせる。
そして伊太郎に向ってクスッと微笑んだ。
いや、あまりに寒すぎて、笑うしかなかったのだが。
そんな沙紀をいつになく優しそうな目で見ていた伊太郎が、意を決したように話し始めた。
「なあ、相崎。俺、おまえに謝らないといけないことがあるんだ」
伊太郎が突然立ち上がって目の前にあるブランコに座り、小さく揺らしながら言った。
沙紀も促されるようにして隣のブランコに腰掛ける。
「六年生の時、おまえと吉野のことでからかったことがあっただろ? 」
いったい何を言い出すのだろうと沙紀は怪訝そうに伊太郎を見た。
「あの時、傘の落書きしたの、俺なんだ……」
そういえば、そんなこともあったかな、と沙紀はおぼろげに思い出していた。
もうはっきりとは覚えてないが、この目の前の伊太郎と取っ組み合いのケンカ寸前になったのは、なんとなく沙紀の記憶の片隅に残っている。
そうだ、小学生なのに結婚してるとか言われたあの事件だ。
けれど今は。康太自身の口から、将来は結婚したいねと言われるような間柄になってしまった。
伊太郎の冷やかしは限りなく事実に近付いている。
「おまえと吉野があまりにも仲がいいんで、俺、妬いていたんだ。でもあの時は相崎に吉野を取られているみたいに思って、あんなことやったはずだったんだけど。中学生になって、違うって気付いたんだ」
「って、別にもうそんなこと気にしてないよ。随分昔の話じゃん。それに確かに、こうちゃんが山本君と楽しそうに遊んでると、邪魔してたのはあたしだしね。あの頃のあたしって、人付き合いがヘタだったから。こっちこそゴメンね」
「だから、違うんだ。おまえは何も悪くないんだ」
沙紀はきょとんとして、ぎいぎいと錆びた音を立てるぶらんこに座る伊太郎を見た。
「俺、相崎のこと……。あの頃から好きだったんだと思う。きっとあの時も、おまえの気を引きたくてあんなことやってしまったんだ。中学に入ってからも相崎ばかり見てた。高校でも、ずっと……見てた。ゴメン。こんなこと一方的に言って」
沙紀はただじっと、伊太郎の言葉に耳を傾けていた。
それはまるで、自分の知らない人が自分ではない誰か他の人に話しかけているのを、どこか遠くから見ているような、そんな不思議な光景だった。




