73 一歩ずつ
沙紀が高校生になって、三回目のクリスマスを迎えようとしていた。
期末テストも終わり、あとは冬休みを過ごしセンター試験が始まるのを待つばかりだった。
大手予備校の冬期講習の申し込みも段取りが整い、明日から年末も正月も勉強づけになる日々がスタートする。
三年生になり沙紀は康太と共に文科系国公立大受験組に在籍し、高校では初めて同じクラスになった。
まどかも伊太郎も一緒だ。
まどかは保育士と幼稚園教諭の免許を取るため、地方の教育大を目指している。
伊太郎は強豪サッカーチームのある国立大狙いで、センター試験に向けて最後の追い込みをかけているのか、康太の家に泊まり込んで勉強するほどの熱の入れように沙紀も目を丸くしていた。
沙紀と康太は地元の教育大を受験することに決めた。
康太は三年生になった今でも文系クラスの中では相変わらずトップの成績を維持しているため、担任に難関大学の受験を幾度となく薦められるも、今日まで本人の意思が変わることはなかった。
でもすんなりここまでたどり着いたわけではない。
康太の両親が夏休みを利用して帰国してきた時、夏子はドイツの音楽学校に入るよう彼の説得を試みたのだが、頼みの綱である雅人までもが康太の肩を持ち、息子を音楽の道に引き入れることに見事失敗したのだった。
それでもあきらめきれない夏子は、沙紀を使って、なんとか康太をドイツにおびき寄せる作戦に出たのだが……。
「ねえ沙紀ちゃん。ドイツの音楽学校に興味はない? 本場で音楽の勉強をやってみるのはどうかしら? あなたが行くって言ってくれれば、きっと康太も一緒に来ると思うの。ねえ、沙紀ちゃん、考えてみてくれない? 」
沙紀は、夏子の突拍子もない誘いにややたじろいだが、幼稚園教諭になる夢を捨てることはもう出来ない。
それに、康太の気持ちも決して揺らぐことが無いのを知っているため、夏子に申し訳ないと思いながらも、首を縦に振ることは出来なかった。
「先生、ごめんなさい。あたし、どうしても幼稚園の先生になりたいんだ。多分こうちゃんも小学校の先生になる決意はかたいよ。仮にあたしがドイツへ行ったとしても、こうちゃんは行かないと思う……」
「沙紀ちゃんまでそんなことを……。こうなるんだったら、あの時、何が何でも康太をドイツに連れて行くべきだったわ」
「そ、そうだよね。ちょっとタイミングが悪かったかも……」
などと言いながらも、そんなことになっていたら、沙紀の高校生活は灰色の暗い日々だったにちがいない。
先生には悪いが、これでよかったのだと思っている。
「きっと雅人のせいね。あの子が教師の仕事を自慢げに康太に吹き込んだに違いないわ。でもね、康太の音楽性について最初に気付いたのは雅人だったのよ。こいつを絶対にピアニストに育ててみせるって。それはそれは大見得を切っていたものよ。なのに……。康太も康太だわ。いったい何を考えているのか知らないけど、親の言うことには一切耳を貸さないんだから。……こんなこと、あなたに言っても仕方ないわね。沙紀ちゃん、あなたまで巻き込もうとしてごめんなさい。勝手なお願いだけど、これからも仲良くしてやってね、あの子と……」
夏子は最後の望みも、もう完全に絶ちきられたと確信したのか、雅人と沙紀に康太のことを託し、早々にドイツへ引き上げていった。
沙紀はそんな夏子の後ろ姿に向かって、ごめんなさい、自分の存在が彼を日本に引き止めてしまっているのかもしれません、と心の中でつぶやき責任を感じる日々を送っている。
伊太郎がやっと家に帰ったと連絡を受けた沙紀は、久しぶりに康太の部屋に来ていた。
受験勉強を理由にそれぞれの部屋を行き来することも珍しくないこの頃だが、まだ二人が付き合っていることを友人たちに内緒にしている手前、伊太郎が康太の家にいる間は沙紀はなるだけ顔を合わせないようにしていたのだ。
また同居している雅人も、二人が付き合っていることを応援してくれていて、康太に良かれとあの手この手で協力体制を取ってくれてはいるが、だからと言ってどうなるものでもなく、康太はさておき、沙紀としては今の状況にそんなに不満があるわけでもなかった。
今日も雅人は沙紀の顔を見るなり、土曜日であるにもかかわらず、仕事がどっさりあるからちょっくら学校に行って来るわと、にこやかに手を振って家を出て行った。
いいね、若いもんは。おい、康太、沙紀ちゃんに愛想をつかされないよう、男らしくビシッとな。今日のこの時間は俺からのクリスマスプレゼントだよーん、などと意味深な言葉を残して……。
「沙紀。明日から予備校行くんだよな。しばらく会えなくなるな……」
沙紀と並んでベッドに座っている康太が寂しそうな声で言った。
「うん……。だから言ったでしょ、こうちゃんも一緒に冬期講習申し込もうって」
沙紀はベージュの格子柄のクッションを胸に抱きかかえて康太にもたれかかり、少し拗ねるようにして言った。
「そうだったな。でもさ、俺、予備校とか苦手だし……。松桜の奴らも来てるだろうから、なんか顔を合わすのがうざったくてさ。でも、わからないところとかあったら一緒に考えてやるから、電話してきて。まさか夜中に窓越しにしゃべるわけにもいかないだろ? 」
「わかった。そうする。……こうちゃん、ごめんね。あたし知ってるんだ」
沙紀は、少し驚いたように彼女を見ている康太の手に、自分の手を重ねながら言った。
「こうちゃんさ、お父さんやお母さんに遠慮してるんだよね。予備校の費用ってバカになら無いもん。そうやってこうちゃんがいつもいろいろ我慢して、親に迷惑掛けないようにしてるの、あたし知ってるよ」
「沙紀……」
康太に手を握られると同時に、そのままそばに引き寄せられる。
そして額に優しいキスが舞い降りてきた。
「確かに、おまえの言うとおりかもな。オヤジの仕事も大分軌道に乗ってきたみたいだけど、これ以上仕送りを増やしてもらうわけにもいかないし、かと言って、雅人兄さんに予備校代出してくれっていうのも違う気がするんだ。日本に残してもらってるだけでもありがたいんだし、なるべく親達に心配をかけないで過したいと思ってる。大学に行けば奨学金申請して、バイトもして、少しでも自立できたらいいなって考えてるんだけど……」
今年のクリスマスの康太は、いつもより大人びて見える。
そして、彼の隣にいれば、いつも沙紀の心をぽかぽかと温めてくれる。




