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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第六章 ショパン 木枯らしのエチュード
74/188

72 ずっといっしょに

 今のはいったい……。

 彼の顔が近付いたかと思うと、そっと唇をふさがれ、すぐに離れていった。

 そして、今起こったことを振り返る暇も与えられないうちに、椅子に座ったまま康太に抱きしめられていた。

 耳元で彼の声が聞こえる。


「沙紀。そんなに怒るなよ……。俺が悪かった。……な? だからもう怒らないで」


 康太が沙紀の髪を撫でながら、なだめるように言い聞かせる。


「こうちゃん……」

「これからも俺達、ずっと一緒だよな? 」


 いったい康太は何を言い出すのだろう。

 彼の不可解な問いかけに不安しかない。


「うん。ずっと一緒だよ。こうちゃんさえ、ここにいてくれれば。ずっと一緒にいられると思ってる」

「ああ、そうだな。俺、ドイツには行かないから。親が何と言おうと、ここにいる。高校卒業しても、このままでいられるように親を説得する」

「絶対に行かないでよ。もし行ったら、あたしもついて行く」

「それを聞いてちょっと安心した。なあ、沙紀……」


 沙紀の髪を撫でている康太の手がふと止まった。


「あの部長のこと、どう思ってるんだ? 」


 沙紀もその瞬間、動きを止めた。


「部長? 部長って星川先輩のこと? 」

「ああ、そうだ。あいつ、沙紀に気があるんじゃないかな……」

「何言ってるの? そんなわけないよ。別に個人的なかかわりなんて一切ないし、顔を合わさない日も多いよ。いつだって部長と一年生は別行動……だし……」


 沙紀は康太の肩から顔を離して、彼の目を見ながら言った。

 けれど、あのコンサートの時、一年生が心配だと言って駆けつけてくれた。

 あれは沙紀のためではなく、一年生全員のためだ。

 それは康太にはちゃんと説明したし、彼も不信感は持たなかったはずだ。

 が、あのことは言っていない。

 緊張で演奏がうまくいかなくなった時に聞こえた先輩らしき人の声。

 部長の声だったかもしれないし、全く関係のない保護者の誰かが気遣って励ましてくれた声だったのかもしれない。

 仮に部長の声だったとしても、たったそれくらいのことで康太の言うような好意的な感情を抱いているとは言い切れない。


「沙紀は気づいて無いのかもしれないけど。あいつはおまえに惚れてるんじゃないかって思う。副部長の沙紀への執心も、その辺りに答えがあるんじゃないのか? 」


 そう言えば、副部長の小笠原に執拗に責められている時、水田先輩に康太とおなじようなことを言われた。

 けれど。だからと言って、部長が自分を好きだなんてことは絶対にないと言い切れる。

 そのような感情を直接ぶつけられたこともないし、思わせぶりな視線をあびたこともない。


「絶対ありえないって。それならば水田先輩の方がその可能性ありだと思う。だって、あの二人はプライベートで仲が良さそうだもの。部長のお母さんと水田先輩のお母さんは風の森幼稚園の園長と主任なんだ。親も公認の仲かもしれないよ。だからあたしなんかがその間に入り込む隙なんて微塵もないんだから……。ってもしかして、こうちゃん。嫉妬してる? 」

「な、な、なんだよ、それ。嫉妬なんかしてないよ。俺は、ただ、あの部長が沙紀を見る目が他と違うような気がしたからそう言ってるんだ。あいつ、うちのキャプテンと仲がいいだろ? だからなのか、やたらあいつが目に付いて仕方ないんだ。あのピアノ事件のおかげで、俺の顔も割れてるしな。やけに目の前にちらつく」

「とかなんとか言っちゃって。絶対嫉妬してるし。でも嬉しいかも」


 沙紀はそう言って、今度は自分から康太に抱きついた。


「お、おい! 沙紀! 」


 今回は康太の方があわてる番だ。


「こうちゃん、さっきは乱暴なこと言って、ごめんね。あたしは、こうちゃんのお嫁さんになる日を、ずっと夢見てるから。ねえ、こうちゃん。そ、その……。今さっきのあれって、き、き、キス……だよね? 」


 彼の耳元で小さい声で訊ねた。


「うん。……した。だめか? 」

「だめなことなんてないよ。やっぱりそうだったんだ。でもね、初めてなのに、なんでけんかの途中でそうなるのかなと思ってさ……。ちょっと、切ない……よ」


 沙紀は康太の顔が見えないのをいいことに、さっきの事の真相を確かめてみた。


「じゃあ……。もう一回する? 」


 康太にしがみ付いていた沙紀は、無理やり引き離され、彼と正面から向き合う形になった。


「ええ? やだ。こうちゃんのバカ。バカバカバカ。そんなの、恥ずかしいに決まってるし……」


 今沙紀が口に出来るのはこれが精一杯。

 うん、もう一回して、なんて絶対に言えない。


「うそだよ。わかったから。もう言わないから……。で、さっき言いかけたこと、いったいなんだよ? 将来ことだっけ? 」 

「う、うん。それなんだけど。……実はさ、あたし、幼稚園の先生になりたいなって思ってるんだ」

「そうか……。別にいいんじゃないか? 沙紀にぴったりかもしれないぞ。でもお袋もおまえんちのおばちゃんもがっかりするかもしれないな。だって、お袋は沙紀が音大に行くのを楽しみにしてたし、おばちゃんは医学部を目指せって言ってるだろ? 」

「それなんだよね、問題は。あたしって、みんなの期待はずれなのかな? 」

「そんなことない。周りが何と言おうと、自分で決めたことが一番だと思う。俺は賛成だけど? 」

「ありがと……こうちゃん。進学先のこととかもいろいろ調べて、これから準備しないといけないし……。こうちゃんとは別の道を行くことになるけどね」


 沙紀はピアノの方に向いて座りなおすと、片手でポロンポロンと意味もなくピアノを鳴らし始めた。


「……いいや。そんなことないかも。実は俺も」

「え? 何? 」

「学校の先生になるのはどうかな? と最近思い始めていたんだ」

「学校の先生? 」

「そう。まだ具体的にはイメージできないけど、小学校か中学校、あるいは高校の先生になるのはどうかなって思ってるんだ。それなら子どもたちや生徒と一緒にサッカーやるってことも可能だろ? 部活とかでさ。小学校ならピアノも役に立つし」

「へえ……。そうなんだ。じゃあ、教育学部とかに行くんだよね? 」

「うん。そのつもり。だから沙紀も教育学部にすれば、同じ大学に進学できるかもしれないぞ」


 沙紀は康太の言っていることの意味を全て理解すると、満面の笑みを浮かべ、そうだね、と言って頷いた。

 そして康太と再び視線が絡むと、彼の手が沙紀の頬に添えられて。

 静かに唇が重なった。 

 沙紀は一瞬目を見開いて近すぎる康太の顔にびっくりしたが、そのまま何も言わずに眼を閉じた。

 それはとても温かくて、優しくて、沙紀の心の中にしっとりと染み込んでいく。

 もう彼と一瞬たりとも離れたくなくて、いつの間にか康太の背中に手を回し、より一層身体を寄せ合う。

 誰に教えられたわけでもないのに次第に深く激しくなっていく康太とのキスに驚きながらも、沙紀は身も心も彼に預け、二人だけの世界に溺れていった。


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