71 争いの先にあるもの
「こ、こうちゃん……。あ、あ、あのさあ」
前に自転車置き場で抱きしめられた時とはまた違った感覚だ。
横向きに並んでいるし。ピアノの前だし。そして、二人以外、誰もいない部屋にいる。
身体中が心臓になったみたいにドキドキと鼓動が高鳴る。
顔を見合わせていないのがわずかばかりの救いだ。
「あの……。こうちゃんは将来はやっぱ、ピアニストになるんだよね? 」
沙紀はこのとんでもなく大胆な康太の行動にかすかにめまいを覚えながらも、必死に遠のきそうな意識を保ちつつ、なんとか別の話題を見つけ出した。
「ピアニストか……。小学生の頃はそう思ってたこともあったかもしれないけど……。今はそんなになりたいとも思わないよ。というか、なかなかなれるもんでもないしね」
「えっ? そんなことないって。こうちゃんなら、絶対にピアニストになれるよ」
「厳しい世界だよ、音楽の世界は。音大のピアノ科を出ても、純粋にピアノ演奏だけで生きていける人はほんの一握り。だから、こうやって好きな時に好きなように弾くのが俺の性にあってるのかもしれないな」
康太の左手が尚も沙紀の身体を引き寄せる。
「そ、そうなの? てっきりこうちゃんは音大行って、ピアノの道を極めるのかと思ってた……。じゃあ、何になるの? そうだ。サッカー選手! Jリーグに入るとか? 」
沙紀は康太がピアニストになることにここまで消極的だとは思わなかった。
けれども彼にはサッカーという強力な武器があることに改めて気付く。ならばJリーグだと。
「あはははは……! おまえなぁ、なんでJリーグなんだよ。それこそ逆立ちしたって無理だよ」
「ええっ? でも、こうちゃん、先輩にも監督にも認められたって……」
「それくらいじゃJリーグなんて無理だって。まず、北高が県代表になって全国大会に行って。それで、そこでも活躍して、世間に認められなければ無理なんだよ。県代表になるだけでも夢のような世界さ。この年末の全国大会には、別の高校が勝ち抜いて出場を決めてるし。それに、まだレギュラーメンバーに選ばれてもいない。……将来か。何になるのかな、俺。でもまあ、Jリーグだけはないな。あははは……」
「やだ。なんでそんなに笑うの? あたし、何か変なこと言った? そりゃあ、あたしだって、そんなに簡単にJリーグに入れるなんて思ってないよ。それくらい知ってるもん。こうちゃんのいじわる! 」
「悪かった。そうだよな。そんなに怒るなよ。何も沙紀を馬鹿にしたわけじゃない。あんまり真剣な顔してJリーグなんて言うからおかしかっただけだよ。ゴメン! でもな伊太郎なら可能性があるかもしれない。だってあいつ、県の高校選抜チームに候補に挙がったくらいだからな。来年は確実に選ばれるよ」
「そうなんだ……。でもあたしはこうちゃんなら何やっても成功すると思うんだ。勉強だって学年トップだし、将来何だってなれるよ」
「それは言い過ぎ。俺は沙紀が思っているほどオールマイティーな人間じゃない。何でも出来るわけじゃないさ。現にいつだって沙紀を怒らせてばっかだろ? 人間的にはまだまだ未熟だし、頼りがいのない情け無い奴だと思ってる。それに成績だって、あれは松桜で高校のところまで先取り授業やってたから、なんとか維持してるだけだよ。貯金が無くなったら一気に下降しそうな予感……」
康太がやっと沙紀から手を離すと両手を頭の後ろに組んで、はあっとため息をつく。
「勉強貯金か……。あたしなんて、そんなものこれっぽっちも持ってないから、もう散々な目にあってるけどね。そうそう、ねえ、こうちゃん。あたし将来のこと、少しまじめに考えてるんだ」
沙紀は身体ごと康太の方に向いて、真剣に話し始める。
「えっ? なになに? 俺のお嫁さんになってくれるって? 」
康太が急に沙紀の肩に両手を載せたかと思うと、顔を覗きこむようにして真顔でそんなことを言うのだ。
「もう! なんでそうなるのよ。ふざけてる人には教えてあげないっ! 」
沙紀は肩に掛けられた康太の手を払いのけると頬をぷうっと膨らませた。が……。
次第にめいっぱい膨らませたはずの頬がしぼみ始め、真っ赤になっているであろう顔を彼から背けてうつむく。
今のは遠まわしのプロポーズではないのか。
こうちゃんのお嫁さんって。そんなのまだ考えられないけど、嬉しいかも、しれない。
康太のさっきの言葉を頭の中で何度も繰り返しているうちに、自然と口元が緩んでにやけてしまいそうになる。
顔を上げると、そこには少し困ったような顔をした康太が沙紀を見ていた。
沙紀は彼がちょっとかわいそうになってきた。
「しょうがないな……。じゃあ、教えてあげよっかな? えへへへ……」
「何がえへへへへだ。せっかく俺が沙紀を嫁にするって言ってるのに……。あとで後悔するなよ」
「嫁にする、だって? 」
だれっとしていた口元が急に引き締まり、沙紀の持ち前の勝気な性分が顔を覗かせ始めてしまった。
「別に無理してお嫁さんにしてくれなくても結構! こうちゃんがどうしてもって言うのなら、あたしがこうちゃんをお婿さんにしてあげてもいいけど? 」
せっかくのいい感じなムードもぶち壊しな沙紀の怒り口調に、康太は殺気を感じたのか、後方にのけぞってしまった。
「そ、そうだよな……。沙紀は一人っ子だもんな。その点、うちには翔太もいるし、俺、おまえんちの婿養子になろうかな……なーんちゃって……」
「何マジなこと言ってんの? そんなことは今別に考えなくてもいいじゃん。うちのパパはただのサラリーマンだし、家を継ぐとかそんなの全く関係ないから! あたしが言いたいのはこうちゃんのその押し付けがましい態度が気に入らないっていうことだけ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ! 」
「それくらい自分で考えてよっ! 」
「なんだよ、その言い方!! 」
「何よ! そっちこそ……」
沙紀が右手を振り上げ怒りを爆発させようとしたその瞬間、康太の手がそれを掴み、彼の顔が彼女の目の前に迫って来た。
そして……。
沙紀の唇に何かがすっとかすめ、重なって……きた。