70 木枯らしのエチュード
沙紀視点になります。
「こうちゃん? 」
「もしかして……聴いてなかった? 」
沙紀がむすっとしながら康太に訊ねた。
「あ、もう終わったのか? 沙紀、ご、ごめん。途中までは、その、ちゃんと聴いていたんだけど……どうも集中できなくて……」
どおりで途中で止められることもなく、最後まで弾かせてくれたわけだ。
沙紀は康太のびっくりしたような、情けないような、困惑した顔がなんだかおかしくて、肩をすぼめてクスッと笑った。
「ねえ、こうちゃん。何か悩みでもあるの? 」
「悩み? いや別に何も……」
「部活で何かあった? 」
「いいや、ない。いつもどおりだけど……」
「じゃあ、ドイツにいる家族のことを思い出してたんだ。……ちがう? ほーら図星じゃん! 」
沙紀はなんだか今夜の康太は小さい子どものようで、からかいたくなっていた。
さっきは今までの横暴な指導を謝ってくれたし、沙紀としても今後は素直に彼のアドバイスを受け止めようと考えを改めたところだ。
そんな彼が愛おしかったし、何を悩んでいるのか、心ここにあらずな彼もかわいく思える。
「そんな訳ないだろ! 」
ムキになって反論してくるところもなぜか今日は許せてしまう。
「強がっちゃって。寂しいんだ。ね? そうでしょ? 」
「ふん、勝手に言ってろ。決まってるだろ。俺はいつも……。いつも、沙紀のことしか考えて……ない……」
「え……」
康太の答えは、想像の斜め上どころか、一周回ってもう一周回って。
どこかわからない位置に向かって放たれた矢のようだった。
時間が止まる。
呼吸も止まる。
そして、胸の鼓動も止まった。
沙紀は康太と視線を絡めたまま、まるで金縛りにでも遭ったかのように身体が固まってしまい、身動きが出来ないでいる。
康太が徐に立ち上がり、沙紀の方に近付いて来た。
だんだんとその距離が縮まっていく。
沙紀はたった今鳴り始めた心臓の響きに再び支配され、ただ、康太がそばに来るのをじっと待つことしか出来ない。
康太の気配を全身で感じている沙紀の肩に大きな手が触れ、その瞬間、彼女の心拍数は史上最大値を記録してしまった。
それはまるでスローモーションの世界のようで、肩が擦れ合うほどの近い距離に大好きな人の横顔を認め、この後起こるであろうことをあれこれ思い巡らせる。
このまま抱き寄せられるのだろうか……。
それとも……初めての……。
……本当のキス……。
沙紀の肩に触れている康太の手は、彼女をちょっと横に押した……だけだった。
康太がピアノの椅子に座るため、沙紀が端の方に押しやられたのだ。
ただ、それだけのことだった。
「沙紀の木枯らし、ちゃんと聴いてなかったお詫びに今から俺が弾くから、そこで聴いてて……」
「こうちゃん……それって……」
「何? とにかく黙って聴いて」
精一杯ドキドキさせられたわりにはちょっと物足りない展開に、康太の横にピタッとくっついて座った沙紀は、ホッとした後、ちょっぴりがっかりした。
康太のピアノの音色は、いつも沙紀の心を落ち着かせる。
よどみのない澄んだ音と語りかけるようなフレーズが、沙紀の心の奥深くに染み渡るように溶け込んでいくのだ。
時に優しく、時に激しく。
沙紀が座っているせいで弾きにくくなっているはずなのに、そんなことも関係ないかのようにしっかりと音を紡ぎ出していく。
まさしく真珠の粒が転がるような音の波が木枯らしのごとく瞬く間に鍵盤を駆け抜けていった。
さっき自分が弾いたのと本当に同じ曲なのだろうか。
沙紀は言いようのない感動を味わいながら横にいる康太を見た。
高音部の最後の音を弾き終わった康太の額に薄っすらと汗が滲む。
そして音の響きが消えると同時に曲が終わったのを知る。
まるでコンサート会場で演奏する康太がそこにいるようだった。
黒いタキシードを着て、縦横無尽に鍵盤を操る若手新鋭ピアニストの到来に、会場は割れんばかりの拍手に包まれる。
そして観客に向って挨拶をする康太に沙紀が花束を手渡すのだ。
沙紀は近い将来、こんな夢のような絵図が本当に実現するのではないかと、何か予言めいたものすら感じる。
「こうちゃん、ありがとう……。まさしく木枯らしって感じだった」
「そうか」
「あたしのは、あれじゃ、ただのつむじ風だよね。それも湿気の多い、べたっとした感じの風」
「えらく自己評価が低いな」
「自分の実力はあたし自身が一番よくわかってるんだから。ああ……。早く、こうちゃんみたいに弾けるようになりたいな」
沙紀は無意識のうちに座る位置を左側にずらし、康太からわずかに離れて話していた。
「別に俺みたいに弾かなくてもいいよ。それぞれの個性も大事なんだし。ただ、雑な弾き方はダメだ。自分の音をよく聴いて、自分ならではの音の色を出すようにしないとな。録音したのを聴きなおすのもいい勉強になる」
「そっか。じゃあ今度やってみるよ。次、もう一回この曲レッスンしてくれる? 」
「わかった。沙紀がそう言うなら。じゃあ次はこれとモーツアルトのソナタを仕上げといて」
「オッケー」
自分で言うのもなんだが、モーツアルトは自信がある。
次回は両方とも完ぺきにして、康太をあっと驚かせようと意気込む。
ところが、そんな沙紀の前向きな気持ちをよそに、隣に座る康太の様子が変だ。
そんな彼がため息をひとつつき、話し始める。
「……なあ、沙紀。さっきから気になってるんだけど、なんでそうやって離れるんだよ」
すでに沙紀と康太との間には手のひらサイズの隙間が出来ていた。
いくら康太の家のピアノの椅子がワイドタイプだとは言っても、これだけの隙間を作れば、端に寄った沙紀は、ほとんど半分腰を浮かせた状態でないと二人並んで座れない。
「あっ、ホントだ。なんでこんなに端っこに来ちゃったんだろ……。でもあたしがいると狭いでしょ。さっきも弾きにくかったんじゃないかな。こっちの先生用の椅子に座ろうかな」
と、隣に並べて置いてある一人用の椅子に移ろうとしたその時だった。
「いいから。ここにいてくれよ」
沙紀は座ったまま康太の左腕で、すっぽりと抱き寄せられた。




