69 ふたりきり
「……なんだよ、そっちから言えよ」
「いいよ、こうちゃんから言ってよ」
まさか同時に呼び合うことになるとは思わず、変な譲り合いになってしまった。
康太は意を決して以前の自分の非を認め、まずは謝罪することにした。
わだかまりは残したくない。やはりこれ以上、沙紀の不機嫌な顔は見たくなかった。
「……ったく。この前のレッスンの時はゴメン。俺が悪かった。もう細かいことは言わないから、沙紀の思うように弾いてみろよ。な? これで機嫌直った? 」
「ふふっ。何言ってるんだか。細かいこと言わないって、それ、レッスンにならないし。別に、こうちゃんの思うとおりに何でも言ってくれていいよ。あたしだってもっとうまくなりたいし。あたしの方こそ、悪かったって思ってる。生意気ばっか言ってるしね。これからはもう少し素直になるよ。ごめんね、こうちゃん」
そして彼女はにこっと笑った。
いつもの沙紀の笑顔を見ただけで、さっきまでどうして不機嫌だったのかすら、もう忘れてしまっている。
彼女の笑顔はどんな逆境であってもそこから救い出してくれる魔法のアイテムだ。
「で、風の森幼稚園はどうだった? 俺、よほど現地まで行って見に行こうかと思ったんだけど、まさか部外者がのこのこ行くわけにもいかないしな」
「べ、別に来るほどのことじゃないよ。フツーに終わったし……」
くるりと身体ごとこっちに向いている沙紀がまた視線を逸らし、ためらいがちにそんなことを言う。
いつもの沙紀ならば、来て欲しかったな、と言うはずだ。
いったいどうしたのだろう。
「フツーに終わった? たとえば? 」
「だからフツーだよ。可もなく、不可もなく。指揮のまどかちゃんと、みんなの歌に助けられたけどね」
やっぱり、どこかおかしい。
いつもの沙紀じゃない気がする。
何か知られたくないことがある時の沙紀だ。
先日訊いた、部長の星川と園長が親子だということにも関係しているのだろうか。
いや、ただ単純に、伴奏が思うように弾けなかっただけなのかもしれない。
ということなら、これ以上掘り下げて彼女を傷つけるのは得策ではないと判断した。
「ふーん。なら、まあ成功ってわけだな」
「う、うん。子どもたちもとてもいい子だったよ。しっかり聴いて拍手もいっぱいしてくれたんだ。行って良かったと思う」
「へえ、そんな小さい子たちが、しっかり聴いてくれたんだ。それはすごいな」
「うん。まどかちゃんも、他の部員もみんなびっくりしてた。それにね、フルーツもどっさり。おいしかったんだ。あとで訊いたんだけど、柿は幼稚園で生ってて子どもたちが世話をして育ててるんだって。それに他のフルーツも災害で被害にあった地域の幼稚園や保育園と交流があって、傷ついて出荷できないようなものや規格外のものを譲り受けて、園児たちが育てた柿をお礼に送ってるんだって」
「へえ。そんなことまでやってるんだ。まあ、いい経験になったんじゃないかな」
「そうだね。ところでさ。なんか今日、いつもと違うよね? 」
「えっ? 何がどうちがうんだ? 」
「ほら。あの人。雅人先生はどうしたの? 今日は、いないの? 」
沙紀が室内を見回し、そんなことを訊く。
「さっき出かけた。今夜は遅くなるって」
「ふーん……」
「ああ……」
「…………」
「………………」
どこか気まずい沈黙が再び二人の間に横たわる。
「……ということは今日は二人だけってこと? 」
沙紀は瞳を見開いて、あまりにもあたりまえのことを康太に訊いてくる。
「そうだ。二人っきりだ……」
「そ、そうなんだ……」
「なあ、沙紀。もし嫌なら、今日のレッスンは辞めにしようか? 」
「そんなこと……ないよ。べ、別に嫌じゃないし……」
沙紀がうつむき、消え入るような声でそう言った。
康太の心臓はありえないくらいの速さでトクトクと鳴り始める。
今までだって、康太の部屋や沙紀の部屋で二人っきりになったことはあったのだ。
今更そんなに意識することでもないはずなのに、どうも今日ばかりは落ち着かない。
すると突然ピアノの方に向き直った沙紀が、いきなりピアノを弾き始めた。
ショパンの練習曲作品二十五の第十一番イ短調。
木枯らしのエチュードだ。
彼女はこの練習曲にかれこれ二ヵ月以上も取り組んでいる。
もう少し難易度の低い練習曲もあるのだが、どうしてもこれが弾きたいと懇願され、しぶしぶ折れたという、曰く付きの曲でもある。
やはり彼女にはまだ無理だったのかもしれないと思い、前回そのことでもめたのだ。
が、しかし。
今日の沙紀は違った。
テンポこそまだゆっくりめだが、音の粒も揃い、まずミスタッチがない。
かなり練習したのだと思う。
康太にとっても木枯らしのエチュードはことあるごとに弾いている馴染みの曲でもある。
ショパンの難曲を弾くためには欠かせない練習曲でもあるのだ。
それに練習曲と言ってもコンサートでもプログラムに取り入れられることが多く、聴き手、弾き手ともにその人気は高い。
康太が以前指摘した部分もなめらかに流れていく。
強弱のメリハリもつき、今日でこの曲を終えてもいいかもしれないと思うくらいの仕上がりだった。
そして、それよりも何よりも。
彼女の肩にかかった髪が、音に合せて揺れる。
そして右手の動きを追うようにして、時々ちらっと見える沙紀の横顔。
あんなにまつ毛が長かっただろうか?
康太はいつの間にか沙紀の演奏する姿にじっと見入ってしまっていたのだ。
そして最後の小節を弾き終えた沙紀が康太の方に振り返った……。
「こうちゃん? 」
沙紀の声にようやく現実に引き戻された康太は、驚いたように彼女を見ると、あっ、とだけ言って、視線を外す。
「もしかして……聴いてなかった? 」
沙紀がむすっとしながら康太に訊ねる。
「もう終わったのか? 沙紀、ご、ごめん。途中までは、その、ちゃんと聴いていたんだけど……。どうも集中できなくて……」
沙紀に見とれていたからとは言えず、それ以上言葉が続かない。




