68 康太の苦悩
康太視点になります。
少し甘めの展開になります。
ようやくここまでたどりつきました。
「じゃあ、ちょいとでかけてくるわ。康太、カノジョとうまくやれよ! これでも、ちぃとは協力してやってるんだからな! 」
雅人は意味ありげな笑みを浮かべて、玄関を後にした。
今日は久しぶりに沙紀のピアノのレッスンの日だ。
テストに部活にと日々忙殺されて、なかなか思うようにレッスンの日が取れないが、先日の幼稚園でのコンサートの報告も兼ねてもうすぐ沙紀が康太の家にやって来る。
テスト前に沙紀に会った時はレッスンはしなかったが、クリスマスコンサートの伴奏だけ聴かせてもらった経緯がある。
演奏するにあたって技術的に難解な部分はほとんどなく、康太ですらもつい口ずさんでしまうほど伴奏としては上出来だったと思う。
が、今日はそうはいかない。通常レッスンに戻るため、指導者としては彼女のために心を鬼にして向き合って行かなければならないのだ。
前回のレッスン時には雅人も一緒にいていろいろ助言をしてくれたのだが、今夜は人と会う約束があるらしい。多分、彼女とクリスマスディナーにでもでかけるのだろう。
休日とはいえ、まだ午後の三時だというのに、もうすでに出かけてしまった。
気を利かせてくれたであろう雅人には悪いが、康太は少し不安になっていた。
というのも、これまでのレッスンで、沙紀との関係が徐々に険悪になっているからだ。
康太が沙紀を指導すると言っても所詮同級生同士であり、たまに恋人同士という間柄にすぎない。
沙紀の生意気な態度に腹を立てた康太と、その横柄な康太に反抗する沙紀という構図が瞬く間に出来上がり、雅人が間に入ってなんとかその場が収まったという苦い経験が、いまだに後を引いているのだ。
沙紀のレッスンは自分がみるからなどと言って簡単に引き受けたのはいいが、いくら康太にピアノの技術があるにしても、弾くことと教えることは全く別次元の物だ。
改めて母親のピアノ教師としての偉大さを、康太は身をもって知ることになった。
せっかくの雅人の若い二人への配慮も、仲裁に入ってくれる人がいないとなると、康太にとっては却ってありがた迷惑でしかない。
それと……。
レッスン室という外と遮断された空間で、沙紀と二人きりになった時、果たして冷静でいられるのか……。
それも不安材料のひとつだった。
一学期に自転車置き場で沙紀を抱きしめて以来、そばで無邪気に振舞う彼女をいつかまた引き寄せて、自分の胸に抱きとめてしまうのではないかと思うと、心穏やかでいられるわけもなく。
いや、今度はそれだけでは済まないだろう。
沙紀に触れたくて、その唇も奪いたくて。
もしかしたら、その衣服すらもはぎ取ってすべてを確かめたくなるのではないか……などと、康太の心はどうしようもないほど大きく揺れ動いていた。
好きな女性のすべてが欲しくなるという、衝動的な自分をどこまで律することができるのか。
康太には全くもって未知な領域であるにもかかわらず、そこに踏み入れたいと願う好奇心あふれる自分にあきれてもいた。
ならば、いっそのことケンカでもして距離をおいた方がいいのかもしれないとまで思ってしまう。
気持ちの赴くままに振舞って沙紀を怯えさせるくらいなら、前のように言い合いをして、このなんとも言えない甘い感情を押さえ込んだほうがましだ。
康太は複雑な思いを抱え込みながら、意図せず鍵盤を強く叩いた。
「……こうちゃん、こうちゃん? 」
レッスン室のドアを叩く音がする。
康太はピアノを弾き始めた手を止めて、ドアを開けた。
「あっ、沙紀」
「んもう、こうちゃんったら! あっ、沙紀、じゃないでしょ? 何度インターホンを鳴らしても返事がないし」
「ごめん……」
「玄関の鍵が開いてたから、勝手に入って来ちゃったけど。不用心だよ。泥棒、入りたい放題……」
「そうか。悪かった」
康太は沙紀と一度も目を合わさないまま玄関に出向き、自ら鍵をかける。
「それにしてもこうちゃん、怖いよ。なんでそんなに怒った顔してんの? また前のレッスンの時みたいにケンカ吹っかける気? そっちがその気ならこっちだって考えがあるし……って、こうちゃん、痛いよ! 」
このままだと永遠に話し続けるであろう沙紀の腕を掴んで、レッスン室に引き入れた。
「つべこべ言わずに、早く弾けよ。それに俺は怒ってなんかいない」
「でも。なんか機嫌悪そう……」
「はあ? そっちがその気ならケンカの相手してやってもいいけど? ちょうどむしゃくしゃしてたし」
沙紀の方こそ不機嫌さを全開にして、康太の手を振りほどいた。
彼女はそのまま無言でピアノの椅子に座り、乱暴に楽譜を広げる。
康太もそんな殺気立った沙紀を見ないようにして後ろの椅子に腰掛け、腕を組み、天井を仰ぎ見た。
すると沙紀が突然、こちら側に振り返るのだ。
「ねえ、こうちゃん。やっぱり前のレッスンのこと、根に持ってるよね。テスト前にコンサートの伴奏を聴いてもらった時はとっても優しかったし、初めて褒めてもくれた。今日も同じような機嫌のいいこうちゃんを期待してたわけじゃないけど。でも、いきなりそんな態度を取られたんじゃ、あたしだって、やってられないよ。もしかして、あたしがまどかちゃんに嘘ついたこと、怒ってるとか」
「ああ、あのことか。別になんとも思ってないよ。俺が音大の学生ってことだろ? 」
「うん。あの時は、そう言うしかなかったんだもの。まどかちゃん、夏子先生がドイツに行っちゃったこと、お母さんから聞いて知ってたんだよ。こういうことって、どこからともなく情報がもれちゃうんだよね」
そう言って再び前を向いた。
でも、一向にピアノを弾く様子もなく、何も話もしない。
沙紀に対して、別に何も怒っているわけでもない康太にとって、この沈黙は耐えがたいものだった。
そして思い余って、沙紀、とつぶやいたと同時に、彼女も振り返って、こうちゃん、と呼んだ。
今日、初めてお互いの目が合い、少しの間見つめあった後、またもや二人して口を噤んでしまう。




