66 ああ、驚いた!
沙紀はさっき保護者席にいた人物がやはり星川だったと再確認して、どこかホッとするのだった。
けれど、今その事実を知ったばかりの部員たちはそうはいかない。
皆の困惑の表情はますますその度合いを深める。
「ぶ、部長!! な、な、なんでここにいらっしゃるんですか? テストの後、進路ガイダンスがあるから行けないって、副部長から聞いてて……その……」
まどかが皆の代弁者として鼻息も荒く部長に訊ねる。
「ガイダンスは希望者のみだ。やっぱり一年だけだと心配だから覗きに来てみた」
園長の隣に座った星川が、おたおたするまどかに向かっていつものように腕を組みながらあっさりと答える。
「そ、そうなんですか」
どうして部長がいるの?
と、ここにいる沙紀以外の部員全員が疑問符にまみれた顔をしていた。
しかしまどかの勇気ある質問でなんとか事態が呑みこめたのか、あちこちで安堵のため息が漏れる。
「よろしいかしら? 」
皆の顔を一通り見渡した園長が、一呼吸置いて話し始めた。
「みなさん、素晴らしい歌声を聴かせて下さってありがとうございました。子どもたちも保護者のみなさんもとても感激していましたよ。テスト中というのに無理を言って申し訳なかったと思ってます。ほんとうにみなさんには感謝の気持ちでいっぱいです」
そう言い終わると、ちらっと星川の方を見て何か目で合図を送ったようだった。
それを察したのか、星川は徐に一人ずつパートと名前の紹介を始める。
最後に沙紀の番になると、園長が興味深げな顔を向けてきた。
「相崎さんっておっしゃるのね。あなたの伴奏も素晴らしかったわ。とてもしっかりした演奏でそれでいて歌を引き立てて……。ピアノの経験はもう長いのかしら」
「あ、はい。小学校の一年生の時からずっと続けています」
「そうですか。中学、高校と続けるのは大変なことよね。そして指導してくださっている先生もあなたのような生徒さんがいると誇らしいでしょうね」
「でも。そんなにいい生徒じゃないです。いつも怒られてばかりで……」
今は康太が沙紀の先生だ。
同級生だし、先生と思うには無理があるのだが、彼のピアノの技術に関しては夏子先生も一目置いていたし、彼から習得したいものはいっぱいある。
「あらまあ、そうなの。厳しい先生なのね。でもあなたなら大丈夫よ。先生もちゃんと認めて下さるわ。では、何か子どもたちの様子を見て気付いたことはないかしら? 」
突然の園長の問い掛けに口ごもってしまったが、さっきから気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「あの……。子どもたちはとても静かに私たちの歌やピアノ演奏を聴いてくれました。観客が高校生でも演奏中はざわついたりするのに、どうしてあんなに小さい子たちがしっかり聴けるんだろう? って不思議に思ったのですけど……」
「それは不思議でも何でもないのよ。あなたたちの演奏が素晴らしかっただけ。たとえ子どもであってもそれが本物かどうか、美しい物なのかどうかは、本能的にわかるんじゃないかしら? 」
沙紀も他の部員も思いがけない園長の答えに身を乗り出す。
あんなに小さい子たちなのに、音楽の何がわかると言うのだろう。
「もちろんいきなり誰もがそのようにしっかり聴く態度が身につくわけじゃないのよ。日々の積み重ねがいるわね。ここの園の先生方はみんな音楽に対してとても真摯な気持ちを持って下さっていてね。歌うことはもちろん、楽器の演奏も日々の保育の中で、たっぷり時間をとって実践されてるわ。もちろん先生方のピアノ演奏や、CDを聴くことも日常的に行われているの。子どもたちにとっては、それがすべて自然なことで、また楽しい遊びのひとつでもあるんですよ。相手が子どもだからと言って、適当に歌って適当に伴奏をつけてというのは、とても失礼なことだと思っているのですが……」
沙紀は話の合間に時折にこっと微笑む園長の笑顔に吸い込まれそうになりながらも、心の中で今まで子どもに対して抱いていた既成概念が崩れ去っていくのがわかったのだ。
「その点、今日のあなた達の合唱はとても一生懸命で、きれいなハーモニーを聴かせて下さった。にわか練習で達成できる内容ではなかったと思います。聞いたところによると、九月から毎日取り組まれていたようですね。男子の方はコンクールの練習もあるのに、大変だったのではないでしょうか」
「いや、それほどでも……」
話を向けられた男子がポリポリと頭を掻きながら、満足げに答える。
「あそこまで完璧な合唱を披露してくださったのですから、誰だって心を動かされますよ。本当に心から楽しませていただいたわ。……なんだかちょっと難しい話になっちゃったわね。とにかく今日のあななたちの演奏が、子どもたちの心にしっかり刻み込まれたのは間違いないわ」
他の部員たちも話の半分くらいは理解できたのだろうか。
コクコクといかにもわかったかのように頷きながらも、園長先生と星川を前にして動きがぎこちなくなる。
再び緊張感が増してきた部員たちもそろそろ限界が近付いて来たのだろう。
その様子を一人リラックスした表情で見ていた人がいる。星川だ。
彼はこの幼稚園との交渉もしてくれていたと聞く。
なので園長とも懇意になったのだろうか。全く緊張している様子がない。
というか、園長先生の前で腕を組んだり足を組んだりと、数々の失礼な態度が逆に気になる。
「もう話はいいだろ? じゃあ、俺も部員もこれで学校に帰るよ」
なんと今度は園長先生に向かってため口を利いているではないか。
部長、それはあんまりでは……。
沙紀の心配をよそに、星川は尚も失礼極まりない態度を取り続ける。
「おい、みんな。ここのフルーツ、むいてない物は持って帰れ。それ以外は今すぐ食べろ」
あまりのあつかましさにためらってしまうが、そんな沙紀をよそに、最初は遠慮がちに顔を見合わせていた部員が徐々に大胆になり、ミカンを持ってきたカバンに詰め込み始める。
まどかもフォークを手に柿やリンゴを思うがままにほおばる。
「沙紀も食べなよ。この柿めっちゃ甘い! 」
そう言いながら、沙紀の口にほとんど無理やり柿がねじ込まれた。
……ん? 確かに、甘くておいしい。
「やっと笑ったね。沙紀ってば、すっごく緊張してたでしょ? 顔なんて、こう……引き攣りっぱなしだったしね。ご苦労様。みんながうまく歌えたのも、沙紀の伴奏のおかげだよ。ありがと」
まどかは尚もいろいろ食べ続けている。
時々沙紀の口にもそれを放り込んでくれるのだが、まどかのスピードには追いつけない。
瞬く間にテーブルから全てのフルーツが消え去り、星川が皆を帰るように促す。
そして一斉に「ありがとうございました」と園長に礼をし、風の森幼稚園を後にしたのだった。
そして学校への帰り道。沙紀とまどかの前を歩く星川に、まどかが話しかけた。
「星川部長。今日はわざわざ来てくださってありがとうございました。おかげで、フルーツもどっさりいただけちゃって。うふふふ。で、ちょっとお聞きしたいんですけど、さっきの園長先生は部長のお知り合いか何かですか? なんか、親しそうに見えたんで……」
沙紀が一番知りたかったことをまどかが訊いてくれた。
いくらなんでも失礼すぎる数々の星川の態度に納得がいかなかったのだ。
彼があのように目上の人に無礼を働く人だったとは……。
沙紀は少しばかり部長に不信感を抱き始めていた。
「ええ? あぁ……。言ってなかったかな? もちろん知り合いだ」
「そ、そうですか」
知り合いならばあのような態度を取ることも理解できないことはない。
けれど、相手が誰であれ年長者に対してはもう少し敬う気持ちが必要だと感じた。
星川らしからぬ一連の流れにまだ戸惑いを隠せない。
「あの……。どういったお知り合いで? 」
まどかも沙紀と同じ気持ちだったのだろうか。
もう少し掘り下げて訊いてくれる。
「園長は……。母だ」
「へえ、そうですか……。って、ぶぶぶぶ部長! 」
その瞬間、沙紀もまどかも手に握っていたカバンを、ドサッと地面に落としてしまった。
星川と園長先生が。
なんと。
親子だった……みたいだ。




