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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第五章 ウェルナーの野ばら
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65 がんばれよ

 幸い、園児も保護者も舞台上で歌っている部員の方ばかりを見ている。

 こういったコンサートにおいてピアノ伴奏はある意味裏方の役割を担う。

 ピアノも舞台上の端の方に設置されているため、あまり目立たない。

 にもかかわらず、沙紀の緊張感は解きほぐれていくどころか、ますますその度合いを増してゆき、ピアノに近い位置に座っている赤いリボンをつけた女児がこっちを見上げた瞬間、それがピークに達した。

 まどかの指揮より少しテンポが速くなってしまう。

 もっとゆっくり、ここはアンダンテで……と言い聞かせながら鍵盤に向うが、ほんの心持ち歌とのズレを感じる。

 そんな沙紀のあせりがまどかにも通じたのか、気遣うような視線がピアノ側に注がれる。

 その時だった。


「がんばれよ……」と誰かの声が聞こえたのだ。


 とても小さい声だった。

 けれど、それはどこかで聞いたことのあるような、心に深く染み入るような声だ。

 いったい誰なのだろう。

 まさか……。もしかして……こうちゃん?

 沙紀は次の曲に移るまでのわずかの間に、少しあたりを見回してみた。

 まさか康太がここにいることなどありえないのに、彼の声が聞こえたような気がするのだ。

 もう一度ぐるりと見回し、保護者の座っている観覧席の後部に目をやった。

 すると。そこにはいるはずのない人物が見え隠れする。


 星川部長だ。


 どうしてあんなところに部長がいるのだろう。

 ただしかなり端の方で、それも園児用の椅子に座っているからなのか、前列の保護者にすっぽり隠されてしまっているのだ。

 多分、歌っている部員からは見えない。

 沙紀はもう一度彼のいる位置を確かめてみた。間違いない。

 その人はやっぱり部長以外の何者でもなかった。

 一年生のことが心配で居ても立ってもいられなくなったのだろうか。

 そして、さっき聞こえた声は、部長の声だったのかもしれない。

 沙紀はやや混乱していたが、二曲目のウェルナーの野ばらの前奏を静かに弾き始めた。


 プログラムもそろそろ終盤に差しかかり、子どもたちもわずかながらゴソゴソと身体を動かし始める。

 部長の姿を見つけたせいなのか、それとも確かに聞こえた「がんばれよ……」の励ましの言葉のせいなのかはわからないが、その後、次第に落ち着きを取り戻した沙紀は、まどかの指揮にうまく合わせることが出来るようになった。

 舞台上の部員も、やった、と言うような満足げな顔をして、最後の礼をする。

 そして子どもたちと観覧席の保護者から盛大な拍手をもらって、コンサートは無事、幕を閉じた。


「終わったね」

「うん。終わった、終わった。ねえねえ、あのホール、高校の体育館の半分くらいしかないけど、なんか響きが良くない? 」

「めっちゃいい響きだったね。気持ちよかったーー」

「俺、合唱部に入ってよかった。こんなに拍手もらって最高だよな! 」

「ああ。子どもらもめっちゃ真剣に聴いてくれたし。俺らコンクールの練習と重なって正直キツかったけど、ここに来れてホントによかった」


 みんな、口々に感想を言い合いながら再び隣の控え室に戻っていく。

 すると子供用のテーブルに紅茶とクッキーがずらっと並んでいた。

 それをいち早く視線に捉えた部員達は、緊張感から解き放たれた安堵と相まって、うおーーっと喜びと感動の雄たけびを上げた。

 水田主任がにこやかな笑顔で、待ちに待った言葉を部員達に届けてくれる。

 どうぞ、召し上がれ、と。

 手作りなのだろうか? さくっとした口ざわりのそのクッキーは、舌の上でほろほろと崩れて、バターの風味が口の中いっぱいに広がり、とびきりのおいしさだった。

 皿に山のように盛られていたクッキーも、育ち盛り食べ盛りの高校生の手にかかったら、あっと言う間に姿も形もなくなってしまう。

 それを見計らったかのようにフルーツが盛られたプレートにすぐに取り替えられる。


「さあさあ、どんどん召し上がってくださいね。もうすぐ園長が来ますから、しばらくこのままでお待ちください」


 気前のいい主任は、そう言ってまた居なくなった。

 沙紀も今日ばかりは信じられないくらい緊張していた。

 最後まで弾けたのが奇跡と思えるくらいに手も震えていたし、楽譜もほとんど視界に入らなかった。

 しかし部長の姿を視野に捉えてからは肩の力が抜けて、本来の力が出せたように思う。

 まだ誰も気付いていないであろうサプライズに一人気をよくしながら、両手でカップを持ち、甘いミルクティーを心行くまで味わっていた。


「やっぱ最初はすっげー緊張したわ。それにしてもあの子どもたち、静かだったよなあ。あんなちっこいのにじっと座って聴けるなんて、マジありえねえし」


 テナー(テノール)の男子部員も初めての経験に驚きを隠せないのか、まだ興奮した面持ちで園児達のことを褒め称えている。

 確かにホール内の園児達は騒ぐでもなく、それでいて我慢してじっとしている風でもなく、楽しそうに聴いてくれていたのだ。

 途中で先生方が、静かに、と触れ回ることもなかった。

 子どもたちの音楽を楽しむ姿勢は最後まで見事に持続していた。

 それは何とも不思議な光景でもあった。

 

 それぞれに感想を言い合っていたところに、園長先生が入ってきた。

 続いて馴染みのある人物が、ついに部員の前にその姿を現した。


「ほ、星川部長! 」

「な、なんで? 」

「部長が、いる……」

「いつの間に? 」


 やっぱりみんなは知らなかったのだ。

 部員達の驚きで見開かれた瞳が、一斉に部長に向かって注がれていた。


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