64 クリスマスコンサートへの序章
部員が幼稚園に着くと、ホールの隣の部屋に通され、そこに用意してあったかわいらしい子供用の園児椅子に座らされた。
「うわっ! かわいい。お尻がはみ出しちゃうかも! 」
「ほんとっ! マジ小さいし! 」
まどかの第一声を皮切りに、みんなの感嘆の声が次々と上がる。
なんて小さな椅子なのだろう。
沙紀が今学校で座っている高校の椅子に比べたら座面も高さも比べ物にならないくらい小さくて低い。
片手でも楽々持ち上がる。
そう言えば幼稚園に通っていた頃、この椅子を丸く並べて椅子取りゲームをして遊んだなと、懐かしく思い出していた。
先生の奏でる軽やかなピアノに合わせてスキップをしていると突然その音楽が止まり、椅子の争奪戦が始まる。
そろそろ音楽が止まる頃だな、という勘も冴えていたし、止まってからの椅子へのダッシュも他者の追撃を許さなかった。
そして最後はいつも勝ち残り、先生が作ってくれたキラキラの王冠をかぶせてもらいチャンピオンになる。
今ではその名残も全く痕跡を残さず、合唱部では一番末席のポジションでもがき苦しんでいる状態だ。
沙紀が思い出に浸っていると、突然部屋に現れた優しそうな女性が「みなさん……」と柔らかい声を発した。
「本日はテスト中にもかかわらず、本園のためにお越しいただきまして、ありがとうございます」
部員達が一斉にその声の主に注目した。
見た目は大変若そうに見えるが、その話声は落ち着いていて、短めにセットしている栗色の髪型がよく似合う目鼻立ちのはっきりとした上品なその女性になぜか惹き付けられるのだ。
どこかで会ったことがあるのだろうか。
その目元に見覚えがあるような気がしたのだが……。
もしかしてテレビで見る女優の誰かに似ているのかもしれないなどと思いながら、沙紀はその人の話に耳を傾けた。
「みなさん、寒くないですか? こちらの部屋にはエアコンがありませんので、ストーブをいくつか用意しておりますが、何分、昨日からの寒波の襲来で、なかなか温まりにくくなっています」
「大丈夫です。外に比べたら、すっごくあったかいです」
まどかが、はりきって答える。
「そうですか。それなら安心いたしました。実は、今日のクリスマスコンサートの詳細を保護者の皆様にもお伝えしたところ、北高音楽部の合唱演奏なら是非とも聴かせて頂きたいとの声が多く、至急、ホール後部に保護者観覧席を設けました。大勢いらっしゃっているようですが、どうか緊張なさらずに普段どおりの歌をお聞かせ下さいね」
男子部員などは、まるで絶世の美女にでも遭遇したのかと思えるくらい、だらしなく口元を開き頬を紅潮させて、一瞬たりとも聞き逃すまいと食い入るようにその人の話を聞いていた。
「あっ、申し遅れましたが私はこの園の園長をしております。ではまた演奏が終わった後にゆっくりとお話を聞かせてくださいね」
そう言って、その人は部屋から出て行ったのだが……。
園長先生? あの人が?
沙紀は目を疑った。あんなに若くてきれいな人が、園長先生だなんて到底信じられるはずもなく。
一般的に園長先生や校長先生という人たちは、五十代くらいの年恰好で貫録がみなぎるようなイメージがあるのだが、それを大きく覆す出来事だった。
もちろん沙紀だけではなかった。隣にいるまどかも他の部員たちも、口をポカンと開けて園長先生が出て行った扉を不思議そうにじっと見ているのだ。
「さあ、みなさん! そんなに硬くならないで。普段どおりでいいのよ。私はこの園の主任をしている水田と申します。子どもたちも今日の日を今か今かと楽しみにしていたので、あなたたちもリラックスして、この演奏会を楽しんでくださいね。ではそろそろホールの方へ……」
園長と入れ替わりでやって来た水田と名乗る主任が努めて明るく振舞い、部員達を励ますかのように労いの言葉を掛けてくれる。
あ……。パートリーダーの水田先輩と同じ名前の先生だ、などと思いながら、少しずつ緊張がほぐれていくような気持ちになってきた。
けれどそれもこの控室の中だけのことだった。
ホールに入った瞬間、緊張度がマックスになっていく。
沙紀は脇に楽譜を抱え、すっかり冷えてしまった手のひらをこすり合わせる。
そして、ゆっくりと息を吐き、大きく息を吸い込む。
何度か深呼吸を繰り返しても、身体の震えが止まらなかった。
そこは、子どもたちがいるのかいないのかも解らないほど、とても静かなホールだった。
おそろいの制服を着たかわいらしい園児達が、直接ホールの床に小さな座布団を敷いて座って待っていた。
その後ろにはパイプ椅子が設えられて、保護者の顔がずらっと並ぶ。
部員達が正面の舞台に順に上がってゆき、目の前の園児達の輝く瞳が一斉に舞台に注がれているのがピアノの前に座った沙紀の位置からよくわかった。
これから始まろうとしている演奏への興味をありありと浮かべた、キラキラした何十何百という瞳に直面して、沙紀はクラクラとめまいを起こしそうになった。
身体が、かーっと暑くなり、それに反してますます指が冷えていく。
舞台上の部員が礼を終えると、それぞれのポジションを確かめるように足を少し開き、余分な力を抜いて声を出す準備をする。
中央に立ったまどかの指揮に部員の視線が集中する。
まどかの指揮棒が大きく一拍目を刻んだ時、鍵盤の上に待機していた沙紀の指が前奏を奏で始めた。




