59 口だけは堅い
康太視点になります。
「いい加減口を割ったほうが身のためだぞ。悪いようにはしないって。なあ康太? 」
「わ、わかったよ。降参! ……はあ」
ようやく自由の身になった康太は、息を荒げながら雅人に説明する。
「沙紀は、その、兄さんの言うとおり、俺の彼女だよ」
「おお、やっぱりね。で、いつから? 小学校の時からか? いいねえ、今どきのマセガキは」
「んなわけないだろ? 今年の三月からだよ」
「なるほどね。中学卒業の時に打ち明ける……ってな、王道パターンね」
「なんとでも言ってくれ。でもやっぱ、近所に住んでるってことはいろいろしがらみとかもあって。親にも友だちにもまだ何も言ってないんだ。もちろんあいつの両親も知らない……と思う。だから、兄さんも黙っててくれるとありがたいよ」
「わかった。もちろん誰にも言わないぞ」
「ホントにそうして欲しい。絶対に! 」
「俺って、そんなに信用ない? あのね、俺は心は柔らかいが、口だけはどこよりも堅いんだ。安心しろ」
本当に信じてもいいのだろうか。
口も相当軽そうな気がするのだが、知られてしまったからには腹をくくらなければならない。
「そうかそうか。やっぱりそうだったのか。いいねえ。青春だねえ。で、おまえ。どうやってあのかわいい沙紀ちゃんをモノにしたんだ? 」
「だから、兄さんが思ってるような関係じゃないって。ただ、付き合ってるだけだよ」
「おやおや、そうなんですか。でもおまえの人生をも左右するほどの彼女なんだろ? たとえば、親は捨てても彼女は手放せないくらい」
「親を捨てたつもりはないけど……。でも、彼女から離れられないのは事実だよ」
「おお、言ってくれるじゃないの。おまえが罹った恋のやまいは、相当手ごわい病原菌が原因のようだな」
「だからこれからもずっと沙紀を大切にしていくつもりなんだ。兄さんは黙って余計なことをしないで俺たちを見守ってくれたらそれでいいから」
康太はこうなるのがわかってたから身内には知られたくなかったのだ。
いや、雅人にこそ一番知られたくなかった。
「康太、言っとくがな、これから先、おまえにはもっといろいろな人生が待っているはずだ。今はこれでいい。でもな、未来のことは誰にもわからん。だから絶対にこれだけは言っちゃいかんぞ! 」
雅人は自分特製の焼肉風野菜炒めをつまみにビールをぐびぐび飲みながら、薀蓄を垂れ始める。
康太も茶碗に山盛りいっぱいのご飯と野菜炒めを頬張り、雅人の話に一応耳を傾ける。
「おまえだけを一生守るとか、将来は俺の嫁になってくれとか……。絶対言っちゃあだめだぞ! 」
ありがちな言葉だが、どうして言ってはいけないのか。
康太には雅人の真意が伝わってこない。
「おまえもあと三年もして、大学生になって音大なんぞに行ってみた日には、それはもう、よりどりみどり、黄緑、青緑の世界よ。いい女があそこにもここにも、いっぱいいるんだからな……。だから早まったらだめだ。あんまり一人の女に固執するなよ。俺だって大学生の頃には高校時代の女とはすぱっと切ってだな、それはそれは色っぺえ年上の……」
康太はあきれて、もう何も答える気になれなかった。
雅人の女性関係の武勇伝も、何も今始めて聞いたと言うわけではない。
アルコールが入ると、いつもコレだ。
今の康太には誰が何と言おうと、沙紀以外の女性など他に誰も考えられなかった。
彼女を一生守って行くし、その延長線上で将来結婚出来たなら、どれだけ幸せだろうと思い描く。
しかし、サッカー仲間の中には、A子がダメならB美に。B美がダメならC代と、結局誰でもいいのかと思えるような思考の持ち主もいるにはいる。
理解できない世界の話だが、好きになった彼女と両想いになれることの方が稀だという世の中の意見が正しいのだとすれば、自分はなんとラッキーだったのだろうと思う。
康太は大急ぎで食器の後片付けを済ませると、ソファに横になって、目をつぶったままテレビを見ていると言い張る雅人の背中に向って、大きなお世話だよ! と心の中で思いっきり叫んでやった。
練習着を洗濯機に放り込み、作動している間にシャワーを浴びる。
仕上がった洗濯物を抱えて二階に上がり、ベランダの物干しざおにそれを干した。
夏子はいつも庭に洗濯物を干していたが、日中誰もいない今となっては、急な天候の変化に対応できないので、屋根のあるベランダが重宝する。
これまでほとんどやったことがなかった洗濯も今ではすっかり板に付いて来た。
室内に置いてある籠の中には、昨日干した洗濯物がたたんで入っていた。
雅人が取り入れてくれたのだろう。
夕飯を作り、洗濯物も片づけてくれて、買い物もいつの間にか行ってくれている。
なんだかんだ言っても、雅人にはいっぱい世話になっているのだ。
今夜はサイレント機能を使って、夜通しピアノに向かってみようと思った。
そして、近い将来、コンクールに挑戦してみるのも悪くないなと考えを巡らせる。
その前に。
沙紀に会いたくなってしまった。
もう十一時近くになっているが、顔を見るくらいなら許されるだろう。
雅人の無礼についても謝罪しなければならない。
康太は沙紀がいるであろう明かりがともった窓に向かって、そっと合図を送ったのだった。




