56 ご対面
雅人視点になります。
「もしもし、あ、香屋子か。今度は何だ? 」
『あたしで悪かったわね。では単刀直入に。よさこいの最後の退場のところ。なんか今使ってる曲がしっくりこなくてさ。プログラムラストの見せ場だしね。今どきの六年生にぴったりくるやつ、至急探しといて』
「って、おい。もう二学期始まってんだぞ。間に合うのか? 」
『だから、大至急! 雅人も運動会、頑張ってーー! じゃねー』
言いたいことだけ言って電話を切った相手は、高校時代からの腐れ縁が続いている、土屋香屋子だった。
大学に進学する時にバッサリと関係を切ったつもりだったが、携帯という文明の利器のせいで、どうにかこうにか今もなお、つながっている相手だ。
雅人が高校生の時に所属していた軽音楽部で一緒に活動していた香屋子は、スティックを自由奔放に操るドラムの魔術師でもあった。
その凛々しい姿にほれ込んだ雅人は彼女に何度もアタックを繰り返し、努力が実って付き合い始めたという過去もあるが、お互いが自由人でありすぎたことがネックになり、高校卒業と同時に縁も切れてしまった、はずだった。
それでも人生の節目節目にメールが行き交い、時には会って身体を重ねることもある、というまことに都合のいい関係を続けている相手でもあった。
香屋子も雅人と同じく、小学校の教諭をしている。ただし音楽の専門ではない。
彼女の場合、大学卒業後にすぐに教職に就いたので、教師としては雅人より経験豊富な先輩になる。
職場は電車の駅二つ分ほど離れているが、研修等で顔を合わせることもあり、今が一番二人の関係性がうまくいっているのではと思っていた。
雅人は大学卒業後は定職に就かず、自由気ままに生きてきた。
ところがある日何を思ったのか、それまでの好き勝手な生き方を改め、周囲の人間が皆驚くような方向転換を行い、あれよあれよという間に難関の教員採用試験を突破したのだ。
彼のこの行動も、実は香屋子の存在が大きく影響していた。
康太にはハニーなどと言って彼女のことを匂わせてはみたが、はっきり言って正式に付き合っているわけではないため、カノジョでもなんでもない。
けれど雅人にとって香屋子は、すでに無くてはならない大切な人になりつつあった。
雅人が教師になって、今年で三年目になる。
大学卒業後すぐ教師になった人とは同じ三年目でも明らかにどこかが違う。
何がちがうというのか。それは……。
態度のデカさだ。
上司の事なかれ主義を真っ向からぶった切り、突拍子もない指導案を立ててはベテラン教師をハラハラさせるのが彼の得意とするやり方だった。
世界各国の民族音楽を授業に取り入れて実践してみたり、パソコンを使った音楽作りを試みたりと、子ども達の心もがっちりと掴み、次第にベテラン達も彼に一目置くようになっていたのだ。
運動会のシーズンがまた巡ってきた。
最近では五月の気候のいい時に開催されるところも増えてきたが、雅人の勤務する学校は、例年通り九月の末に催される。
ここでも音楽教師の腕の見せ所はいっぱいある。
創作ダンスやマスゲーム、身体表現などで使う曲のアドバイスも一手に引き受けるのだ。
そして、香屋子のリクエストまで重なり、多忙を極めているのだが。
雅人は康太がかなりの枚数のCDを所持しているのを思い出し、何かヒントになるような楽曲がないか探すため、いそいそと甥っ子の部屋に向った。
いくら保護者代わりだと言っても勝手に他人の部屋に入るのには、ほんの少しためらいがあったが、それもこれも、仕事のためだと割り切ろう。
何と言っても、自分の分身のような康太の部屋だ。
男同士、なんの遠慮もないと自分に言い聞かせ、誰もいない康太の部屋に向って、入るぞー! と声を掛け、正々堂々とドアを開けた。
室内に入り、遠慮がちにあたりを見渡した。
整理整頓も行き届き、なかなかすっきりとしたいい部屋だと思う。
壁には虫取り網が立てかけてあった。
高校生になってもまだ昆虫採集を続けているのかと微笑ましくもあったが、ある意味虫取りは男児にとっては人生において初めて主役を勝ち取れる珠玉のアイテムでもある。
あのグロテスクなセミや、大きな目玉のトンボもしかり、うっかりクワガタなどをゲットしようものなら、間違いなく仲間内のヒーローになれる。
たとえそれがミヤマクワガタではなく、コクワガタであってもだ。
そう言えば康太がまだ小学生の頃、虫取りに付き合わされたことがあったなと、感慨深く思い出す。
虫かごにうじゃうじゃとバッタを入れて庭に放して……。
姉の悲鳴が周囲に響き渡ったあの日が懐かしい。
机の横に奥行きの浅いCDラックが置いてあった。これだ。
雅人は屈みこんでタイトルやアーティスト名を確認する。
知っているアーティストのものだとそれなりに中身も想像がつくが、そうでないものは聴いてみないとわからない。
だいたいのアタリを付けて、三枚ほどアルバムを手にする。
窓の下にあるミニオーディオにCDをセットしようと立ち上がったその時だった。
「コンコンコン……」
窓のあたりから何か音がするのだ。猫だろうか? それとも……泥棒?
雅人は再び中腰になり身を潜め、窓の方をそっと窺っていた。
「コンコンコン、コンコンコン」
何度もそれは繰り返される。
雅人は意を決して音のする方に向かって立ち、鍵を開けて片方の窓を滑らせた。
「こうちゃん! お帰り! 今日は早かったね……」
雅人の目の前に突然姿を現したのは……。
なんということだろう。
隣に住む、沙紀ちゃんだった。手にはなぜか虫取り網を持っている。
もしかして、その棒の部分で窓を叩いたのだろうか?
雅人は彼女の虫取り網と、康太の部屋にある同じ物を見比べて、なるほどねと瞬時にそのからくりを理解した。
とにもかくにも。泥棒ではなかったことにほっと胸を撫で下ろす。
「なーーんだ! 隣の沙紀ちゃんか。泥棒かと思って、びっくりして腰が抜けるところだったよ。ところで、康太になんか用? あいにくまだ帰ってないんだけどね……」
これはただごとではないぞ、と雅人の持ち前の本能が騒ぎ出す。
これが二人の密会の手段だったのか、と。
康太に女性の影がちらついているのはとっくに気付いていた。
そして彼もそれを認めている。
姉がドイツへ旅立ったあの日も、自然な流れで、この目の前のかわいいカノジョを車から引き離そうと、どさくさに紛れて抱きしめていたのを目撃した。
普通、あの年頃の男は、女性に手を触れることなど、簡単に出来ないはずだ。
それを難なくやってのけた我が甥っ子、康太よ。
君の経験値がそうさせたのだね。
おまえの彼女が誰なのか。わかってしまったではないか。
雅人は自分の推理が間違っていなかったことに気をよくし、沙紀ちゃんに向かって、がはははと豪快に笑って見せた。




