51 マロニエの別れ
康太視点になります。
「よっ! 遅れてわるかったな。おい、康太、おまえも手伝えよ! 」
太陽が真上から頭上をガンガン照らす夏休みの午後、雅人が運転する軽トラックが康太の家の前に停まった。
それはもう溢れんばかりの荷物を高々と積み込んでいる。
「わかってるよ。だから部活も早めに切り上げて来たんだし」
「おお、それはいい心がけだ」
「今までだって結構運んで来てたのに、まだこんなにあるんだ……。ったくしょうがねーなー」
康太は首に巻いたタオルで額から流れてくる汗を拭いながら、運転席から顔を覗かせる雅人に悪態をつく。
真夏の引っ越し作業はサッカーの練習よりキツい。
「おまえ、そういう態度なの? ならこっちにも考えが……」
「わ、わかったから。俺が悪かったよ。雅人兄さん、このとおりです。機嫌を直して、早く車から降りて下さい。一緒に荷物を運びましょう」
「わかれば、よいのだぞ」
康太は顔の前で両手を合せて雅人に許しを請う。
今ここで雅人に拗ねられたら、これまでの計画がすべて水の泡になってしまう。
というのも康太は雅人に一生足を向けて眠れないほどの恩義を受けてしまっていたからだ。
「二人とも、外でごちゃごちゃ言ってないで、早く中に入りなさい! ご近所に迷惑よ」
すかさず夏子が声を荒げ、二人を諭す。
「はいはい、わかりましたよ! それじゃあ、始めますか」
雅人は肩に手をやり首を左右にコキコキと傾けると、汗まみれのTシャツを身体に貼り付けながら車から降りてきた。
「姉貴! 炊飯器はどうする? 」
「そうね、あなたの使ってた方が新しいわね。じゃあ家のを処分してこっちを使ったらいいわ」
「掃除機は? 」
「それは二階で使えばいいわ。うちのは下に置いておけば便利でしょ……って、そんなことどうでもいいからさっさとやってしまってね。私と翔太はもうすぐ出るから……」
康太と雅人はどんどん荷物を室内に運び込みながら、夏子の指示を仰ぐ。
夏子もまた自分の身支度に忙しいあまり、とげとげしい物言いになっているようだ。
そうなのだ。今日、夏子と翔太は当初の予定より早くドイツへ旅立つことになった。
もうあらかたの荷物は船便で送ってあるので、後は身体さえ飛行機に委ねればいい。
玄関先でタクシーを待っている夏子に、康太は呼び止められた。
「康太、とうとう空港に向かう時間になっちゃったわ」
「ああ。くれぐれも気を付けて……」
「ありがとう。これからは雅人の言うことをちゃんと聞いて、けじめのある毎日を過ごすのよ。ピアノはどんなに忙しくても毎日必ず二時間以上は練習してね。それから、それから……」
言っておきたいことが山のようにあるのだろう。けれど、それ以上は言葉にならなかった。
「お母さん……。心配するなよ。俺は大丈夫だから。俺の我がままを聞いてくれたお父さんとお母さんには感謝してる。ドイツに一緒に行かなくて、ゴメン……」
「いいのよ、ちゃんと話し合って決めたことだし……。それに、あなたは……もう……子どもじゃないものね……うっうっ」
「お母さん……」
こんな別れ際に母親の涙を見せられて、康太の涙腺までもが決壊しそうになるが、そこは我慢だ。
それにしても、自分は何という親不孝者だろうか。
本当にこの選択でよかったのかと康太の気持ちが大きく揺らぐ。
「姉貴、もう泣くなよ。子どもは親が思っている以上に、結構自立してんだぜ。心配いらねーって。男二人、何が何でもこの家を守っていくから、安心して、ドイツに行ってくれ」
雅人は大きな手で夏子の肩をポンとたたいた。
「雅人……。本当に申し訳ないわね」
「ノープロブレム! おかげで、前のマンションの家賃の半分でここに住ませてもらえるんだし、お互い持ちつ持たれつってことで……。とにかくこいつが高校を終えるまでは俺がきっちり面倒見させてもらうよ」
「ありがとう、雅人……。お隣の相崎さんにもよく頼んであるから、何か困ったことがあったら相談しなさいね。相崎さんは康太を預かってもいいとまで申し出てくれて、本当にいつも親身になって下さるから」
「ああ、わかったわかった。ここはもういいから、早く行けよ。タクシー来てるぞ。じゃあ気をつけてな」
「あなたたちも……」
夏子はハンカチを眼に当てながら何度も何度も康太と雅人を見る。
「また電話するよ。お父さんによろしく。翔太も元気でな」
「……うん。兄ちゃんも……元気で」
いつも明るい翔太までも、鼻をグスグス言わせている。
「ねえ康太、あのね。もし、寂しくなったら遠慮なく言いなさいよ。いつでもドイツに来ていいんだから……。康太、康太……」
タクシーに乗り込んだ後も、夏子は窓を開けて中から康太を気遣う。
その時、隣の家の玄関戸が開いた。沙紀が駆けつけてきたのだ。
「せ、先生! 待って、ちょっと待って! 」
「沙紀ちゃん」
「先生……。行っちゃうんだ。本当に行っちゃうんだ。あたし、ピアノも歌もがんばるから。だから先生もあたしのこと忘れないでね。夏子先生……」
「もちろんよ。レッスンのことは康太にまかせてるから、頼りないけど我慢してね」
「ううん。こうちゃんなら、先生の指導をちゃんと引き継いでくれるから大丈夫。先生が帰って来る頃にはこうちゃんよりうまくなってるはず。いっぱい練習するからね。楽しみにしててね。あたし、先生がまたここに戻って来てくれるのを待ってるから。ずっと待ってるから……」
「沙紀ちゃんありがと。そろそろ行かなくちゃ。……ごめんね」
「先生……」
車に張り付くようにして窓越しに夏子の手を握っている沙紀を、康太は後ろから抱きかかえるようにしてそっと引き離した。
康太が沙紀に気付かれないように、今のうちに行けと目で合図を送ったのを、夏子が素早くキャッチすると、タクシーがゆっくりと動き出した。
「先生……。おばちゃん! こうちゃんのおばちゃーーん! 」
康太はいつまでも夏子を呼び続ける沙紀を背中側から胸に抱きとめたまま、タクシーがマロニエの街路樹の角を曲がって見えなくなっても、しばらくの間、門の前でそのままたたずんでいた。
「行っちゃったね……」
「ああ……」
沙紀が康太に身を預けたままの恰好で涙をぬぐったその時だった。
「えーーっと。お二人さん。お取込み中、邪魔して悪いが……。そろそろ続き、やらないか? 」
雅人が手に段ボールを抱えながら、意味ありげな眼差しを康太に向け、ニヤリと口の端を上げた。
「あ、兄さん……」
康太は咄嗟に沙紀を離したものの、雅人のニヤニヤはしばらく止むことはなかった。




