48 どこにも行かないで
沙紀視点になります。
「こうちゃん、今日はどうもありがとう。待っててくれて嬉しかった」
沙紀は家から少し離れた曲がり角のところで、自転車に乗ったまま康太に向って小さい声で言った。
「なあ、沙紀。あんまり無理すんなよ。辛い時は俺に何でも言うこと。どんなに遅くなってもいいからメール待ってる。なんなら、昔みたいに窓に合図を送ってくれてもいいぞ。一人で抱え込むな。じゃあ……」
「うん。わかった。じゃあね。また明日」
「おうっ。また明日な」
康太よりひと足先に家に帰った沙紀は、玄関のドアを開けて中に入ると、急に力が抜けてドアにもたれるようにしてズルズルとしゃがみこんでしまった。
帰り道、あまりにも力いっぱい自転車をこぎ過ぎて疲れてしまったから……ではない。
何も無かったように平然と、また明日な、と言って、たった今別々の家に帰った康太には、多分この沙紀の気持ちは理解できないだろう。
さっき学校の自転車置き場で何も言わずに抱きしめてくれた康太のぬくもりが、沙紀の身体じゅうに蘇ってきて、心臓が大暴れするあまり立っていられなくなったのだ。
沙紀は自分自身を抱きしめるようにして、戸口のところにうずくまっていた。
「沙紀、お帰り、って。あらまあ、どうしたの? 沙紀、大丈夫? 」
ドアの開閉音が聞こえてもなかなか部屋に入ってこない沙紀を不審に思ったのだろうか。
春江がそばにやって来て心配そうに覗き込む。
「ママ……。だ、大丈夫だよ」
沙紀は真っ赤な顔のまま、その場に立ち上がった。
「あら、沙紀ったら……。顔が赤いわよ? 熱でもあるのかしら」
そう言いながら、春江が沙紀の額に手をやる。
「あ、違うったら! 熱なんてないよ。今、自転車で坂を一気に上って来たから、ちょっと疲れただけ。心配かけてごめんね。ねえ、ママ。今日の晩御飯は、なに? 」
「もう、この子ったら……。今夜はね、鯖の味噌煮とマカロニサラダ。そしてあとは青菜のおひたしと沙紀の大好きなわかめのお吸い物よ」
「ええっ! あたしが魚嫌いなの知ってるのに、なんで鯖の味噌煮なの? 」
「好き嫌い言わないの! もう高校生でしょ? 魚はね、身体にいいのよ。頭も……」
「頭も良くなるし、ってそんなの関係ないし。もしそれが本当なら、日本中、頭がいい人で溢れかえっちゃうんだから。今夜は、もっとこう……。夢のあるような、フランス料理みたいなのがよかったのにな……」
「ちょっと沙紀。本当に大丈夫? 」
沙紀は春江の心配もよそに、うっとりするような目をして洗面所に行き、手と顔を洗った。
そしていつもなら豪快にごしごしとタオルでふくのだが、今夜は違う。
両手でふんわりとタオルを持って、顔を包み込むようにしてそっとふき取るのだ。
まるで洗顔フォームのCMに出ているタレントがするように、優しく丁寧に水分を取り除く。
「なんだか、今日の沙紀は変よーー! 学校で何かあった? 後でママにも教えてねーー」
キッチンから春江の楽しげな声がする。
だからと言って、康太に抱きしめてもらったおかげで、うきうき気分なんだ、なんて絶対に言えない。
沙紀は洗面台の鏡に映る自分の顔がますます赤くなっているのを見て、恥ずかしさのあまり思わず目を反らした。
嫌いと言っておきながら二切れも鯖を食べた沙紀は、デザートのイチゴをほおばりながら、またさっきのことを思い出していた。
もうあれから何度同じことを思い出したのだろうか。
康太の汗の匂いも新たに蘇ってきて、また頬が熱く火照ってくるのがわかる。
沙紀は春江にひやかされないうちに早くお風呂に入ってしまおうと席を立ったその時だった。
何やら神妙な顔をした春江が沙紀を引き止めるのだ。
「沙紀、ちょっと話があるの。そこに座って」
沙紀はしぶしぶまた席に着いた。
「何? 話って」
春江の様子から察するに、今までの話題とは内容を異にする雰囲気が漂っている。
「あのね、ピアノのことなんだけど……」
ピアノ? いったいどういうことなのだろう。沙紀には話の先が全く見えてこなかった。
「沙紀は、将来もずっとピアノを続けるつもりなの? 」
「もちろん。ずっと続けるよ。……だめなの? まさか、辞めろって言わないよね? 」
「言わないわ。せっかくここまで続けてきたんだものね。いろいろ難しい曲も弾けるようになったし、音楽の成績もいいしね。でもね、今日、隣の吉野さんから話があって……。沙紀も知っているかもしれないけど、吉野さん、来年にはピアノ教室を辞めるっていうの」
沙紀ははっと息を呑んだ。
康太の告白を受けてから、わざと考えないようにしてきたドイツ行きの話が、今鮮明に沙紀の脳裏をよぎったのだ。
「もしかして……。夏子先生が、ドイツに行ってしまうから? 」
沙紀の声が少し震えていた。
「そう……ね。こうちゃんが二年に上がる前に向こうに渡るつもりらしいの。それで、沙紀のレッスンのことが気になるらしくて。もしピアノを続けるのなら、いや、音大受験も視野に入れるのなら、それなりの先生を紹介するから考えておいてって言われて」
「音大? 」
「なんかね、沙紀の腕が上がってきたって言って下さってね。私にはその辺のところはさっぱりわからないんだけど、いい音出してるって。だから是非音大も視野に入れて考えておいて欲しいって。こうちゃんが習っている先生がとてもいい先生で、芸大のピアノ科に毎年何人も合格させてるんだって」
「芸大って……。あたし、そんなの何も考えてないし。でも、夏子先生じゃなきゃ嫌だよ。今更他の先生に習うなんて、考えられない! それに芸大は教科の成績もウエイトが大きいし。あたしには無理! 」
「なら、これをきっかけにして、ピアノは辞める? 実は私も音大や芸大の受験はあまり賛成できないのよ。前から言ってるように、沙紀にはお医者様になって欲しいの……っていうか、ならないとどうしようもないのよね」
春江はいかにも困ったというように、思案顔で腕を組んでいる。
「あたしは別に、おじいちゃんの言うとおり、医者になってもいいんだけど……。でもそれだって今の勉強のやり方じゃ、絶対に医学部に合格なんて出来ないと思うし。どっちにしてもピアノは辞めたくない」
「沙紀、吉野さんはいなくなるのよ。それでもいいの? 他の先生でもいいの? 」
「そ、それは……。なんで、夏子先生いなくなるの? どうしてドイツに行っちゃうの? 」
「こうちゃんのお父さんのお仕事の都合で……」
「そんなの、言われなくてもわかってるし。こうちゃんも、しょうちゃんもいなくなるんでしょ? そんなの嫌だ。絶対に嫌だ」
「沙紀……」
「ねえ、パパに頼んでよ。パパの友達の吉野おじさんに、夏子先生やこうちゃんがドイツに行かなくてもいいように言ってもらって。ねえ、ママ、お願い」
沙紀はもう春江に康太との関係がばれてもいいと思った。
夏子がドイツに行ってしまうのももちろん嫌だ。
その上、康太までもが沙紀の前からいなくなるなんて、こんなに悲しいことはない。
「こうちゃんがいなくなるなんて、絶対にいや! あたし、こうちゃんがいなくなったらどうしていいかわかんないよ。ねえ、ママ、お願い。どこにも連れて行かないでって、吉野おじちゃんに頼んで。お願い……」
「沙紀……。あなたの気持ちもわからなくはないのよ。小さい頃から、こうちゃんとは仲良しだったものね。ならば……。せめて高校が終わるまで、うちで預かるって言ってみてもいいんだけど……」
「えっ? うちで預かるって、誰を? 」
「こうちゃんに決まってるでしょ? パパにも相談してみないと、まだ何ともいえないけれどね……」
沙紀は思ってもみなかった春江の提案に、パッと未来が開けたような気がした。




