3 不思議なご縁
「春江さん、酒はもう結構ですよ! ひくっ、あぁーー。今夜は久しぶりに相崎といい酒が飲めた。ドイツもいいところだが、やっぱ日本にはかなわないよなぁ。相崎っ! ひくっ、聞いてくれ! 俺、また来月もドイツに行くんだ。ひくっ、もうホント勘弁してくれって思うよ」
初めて相崎家の新居に訪れた徹の友人の吉野は、最初は気持ちよく酔っていたが、出張ばかりのこの頃の勤務に不満があるのか、さっきからグチっぽくなっている。
酒はもう結構と言いながら、空になったとっくりの中を覗きこんだ挙句、耳元で水音が聞こえないかどうか振って確かめる念の入れようだ。
とっくに一升瓶が一本空になっている。
「なあ、相崎! ひくっ、まさかお前んちの隣に、我が弟夫婦がやって来るなんて、ひくっ、誰が想像できる? ホント不思議な縁だよな? ひくっ、おかげでこうして終電を気にせずにお前とうまい酒が飲めるってなもんだ……」
吉野は今にも瞼を閉じてしまいそうなくらいフラフラになりがらも、さっきから同じ事を繰り返し話し続けている。
まさかお前んちの隣に我が弟夫婦がやって来るなんて……という台詞はもう軽く十回以上は聞かされ、徹はいい加減うんざりしていた。
二時間以上も前に自分の部屋のベッドに無理やり押し込められた沙紀ですら、暗誦出来るくらいのしつこさだったのだから。
口にこそ出さないが、春江の目がまだ飲むのと訴えかけているのを、徹はひしひしと感じ取っていた。
がしかし、社員同士では見せられない手の内も、友人である徹の前では心置きなく自分を晒すことが出来るのだろう。吉野のグチは当分止みそうにない。
徹と吉野は大学時代からの旧友である。
決して裕福ではなかった学生時代、お互い助け合い勉強だけでなく、食と住も支えあって来た仲だった。
酒の入っていない時の吉野は、今の姿からは想像もつかないほどの折り目正しいまじめ人間で、そのせいかどうかは定かではないが、結婚も遅かった。
子どももまだなく自宅で犬を数匹飼っていて、若い奥さんとの生活は傍目には優雅にそして幸せそうに見えるのだが。
本人曰く、出張があまりにも多く、奥さんと離れ離れになるのが辛い……と。この超まじめな友人吉野は、押しも押されぬ愛妻家だった。
そんな旧友の日頃のストレスを思う存分発散させてやりたいと、徹は吉野に対してついつい寛大になってしまう。
だが春江の気持ちも汲んでやらなければならず、そろそろ潮時かなと、ますます視線の定まらない吉野の背を軽くポンポンと叩いた。
かろうじて保っていた意識の一部を奮い立たせた吉野は、自分の泥酔度合いを把握しないまま、突然ぬぼっと立ち上がった。
「そんじゃあ、今夜はこの辺で! 春江さん、どーも、おありがとう、ひくっ、……ございまし、ひくっ、……たあー、ひくっ」
立っていても体が自然と斜めに傾くほどに酔っている吉野は、以外にも器用にバランスを取りながら右へ左へと身体を揺らしつつもなんとか立っている。
呂律の回らない口調で春江に礼をいい、右手を警官のように額にかざして締まりのない敬礼をする。
やっと腰をあげてくれたと徹がほっとしたのも束の間、歩き始めた吉野の足もとは危険なほどおぼつかない。
ふらついて今にもこけそうになりながら、よたよたと玄関へ向かって歩いていく。
千鳥足どころの騒ぎではない。
「やれやれ吉野……。さあ、おれの肩に掴まって。送っていくぞ! 」
徹は吉野の腕を自分の首の後ろに絡めさせると、抱えるようにして玄関に向かい、言うことを聞かないこの大男の足を、苦労の末やっとこさ靴にねじ込む。
そして隣の弟宅に吉野を送り届けると、徹は改めて暗闇に浮かび上がった我が家を少し後ろに下がって、じっくりと眺めてみる。
酔いの回った身体に夜風が気持ちいい。
家の周りにはまだ自然がいっぱい残っているせいか、夏でも夜になると涼しい風が吹きぬける。
標高も前の居住地より三百メートルも高いのだ。
九月に入って、いっそう涼しさが増したようにも思える。
徹は、小さいながらもようやく家を一軒構える事の出来た自分に、ささやかな満足感を覚えるのだった。
次の日の朝、春江が庭で洗濯物を干していると、隣から声がした。
「相崎さん、おはようございます」
ゆるくウェーブのかかった肩までの髪を揺らしながら、小走りで駆け寄って来た吉野夏子は庭の境界のフェンス越しに春江に話し掛けてきた。
「あっ、吉野さん、おはようございます」
春江は干しかけの洗濯物をカゴにもどし、夏子に向って軽く会釈をする。
まだ二人は、日常のあいさつと子どもの学校のことを一言二言話すくらいの間柄でしかない。
「昨日は義兄が遅くまでお世話になり、ありがとうございました」
そう言って、穏やかな人好きのする笑顔を見せる今日の夏子は、どことなく親しみやすい雰囲気を身体全体にまとっているようだった。
春江もついつい饒舌になってしまう。
「いえいえ、とても楽しそう飲んでおられましたよ。主人も久しぶりにいいお酒が飲めたと喜んでいました。次回は是非、吉野さんご夫婦もご一緒にいらして下さいな」
「ありがとうございます。じゃあこの次はお言葉に甘えて、ご一緒させて頂こうかしら」
「お待ちしていますよ」
「ありがとうございます。でも本当に不思議なご縁ですね。義兄からいつも相崎さんのことをうかがっていましたから、まさか、その相崎さんがお隣に住んでいらっしゃるなんて、びっくりすぎて。主人ともずっとこの話で持ちきりなんです」
「本当に驚きました」
たとえ社交辞令であっても、こういった話をしながら挨拶を交し合うのは気持ちのいいものだ。
夫の友人の親族がお隣さんというのも何かの縁。
こうなったら、吉野家まとめて全部引き受けちゃいましょうと、ドーンと胸を叩く春江だった。