47 別れのカウントダウン
康太視点になります。
慶太がドイツに行ってしまってから、夏子の様子がおかしいのに薄々気付いていたのだ。
子どもの目からみてもとても仲のいい夫婦だった二人だ。
離れ離れになって、元気をなくしてしまったのかもしれない。
少し前の康太ならば、そんな夏子の心の叫びにも耳を澄ますことなく、素通りしていただろう。
けれど沙紀への愛しい気持ちを自覚した今、両親とて同じ人間なのだと理解できる。
お互いを想い合いながら、何ヶ月も離れているのは相当辛いのだろうと容易く想像できた。
もし自分が今、沙紀と引き離されることになったとすれば……。
グラスを落として割ることくらいでは済まない。
他に何も考えられなくなって、ピアノすら弾けなくなるのではないか。
あるいは自暴自棄になって、家を飛び出してしまうかもしれない。
康太はなるべくドイツに行くことは考えないようにしようと、これまで見て見ぬふりをして過ごしてきた。
しかし、この先そうもいかないだろう。確実に沙紀との別れの日は迫って来ているのだ。
康太は意を決して夏子に訊ねてみた。
「お母さん。お父さんがいなくて、寂しいんだろ? なら、取りあえず一度ドイツに行けよ。俺は翔太の面倒を見とくからさ……」
翔太と共に食卓テーブルに着いた康太が今夏子に言える言葉はこれが精一杯だった。
今すぐ自分も一緒にドイツに付いて行くとは言えなかった。
「ふふ。康太、ありがと。そうね、寂しかったのかもね。こんなに長い間お父さんと離れて暮らすのは初めてだもの。でも、あなたたちも弱音を吐かずにがんばってくれてるのに、私だけ先にドイツに行くわけにはいかないわ。旅費だってただじゃないんだから……。行く時はみんな一緒よ」
康太の胸がギュッと締め付けられる。
やはり夏子は全員でドイツに行くのをあきらめていないようだ。
「お母さん、僕も一緒に行く。ドイツに行ってみたいよ。ねえ、兄ちゃん、兄ちゃんも早く行きたいだろ? 」
中一になったばかりの翔太は、康太とは対照的に無邪気にドイツへの憧れを口にするのだ。
が、しかし、康太は行くわけにはいかない。
沙紀と離れるなんてことももちろん考えられなかったが、せっかく手に入れたサッカー三昧の毎日を誰が何と言おうと手放すことはもう出来ない。
康太はあれこれドイツに行かなくてもいい方法を考えてみた。
この家を賃貸に出し、自分が祖母の家に世話になるというのはどうだろうかと。
あるいは、夏子の独身の弟の家に転がり込むのも一案だ。
「俺は……。日本に残りたい。ばあちゃんところでも置いてもらえないかな? 」
康太は夏子に向かって希望を伝えてみた。
「何言ってるの。おばあちゃんも年だし、あなたの面倒なんて見きれないわよ……。きっと」
「俺は面倒見てもらおうなんて思ってないよ。ただ置いてもらうだけでいいんだ。自分のことくらいなんとかするさ。弁当もいらない。学食もあるし、コンビニだってどこにでも……」
「でも、ピアノはどうするの? この家を誰かに貸すとしても、ピアノは動かせないわ。このままここに置いておくつもりだから」
あくまでも夏子には康太を日本に残すという選択肢はないようだった。
「じゃあ、雅人兄さんのところにでも行って練習するよ。あそこなら防音完備のレッスン室もあるし」
「あの子はダメよ。仕事もあるし、気ままな性格だし。第一、雅人があなたを預かるはずないでしょ? 」
夏子の年の離れた弟の雅人の傍若無人ぶりは、康太も知るところだ。
やはりこの提案は無謀なのだろうか……。
「とにかく、今すぐはまだドイツには行けないから、康太が心配することは何もないのよ」
「なんで、まだ行かないなんて言うんだよ。翔太と先に行けばいいって言ってるだろ? 」
「あのね、私がやってるピアノ教室のことが気になるの。生徒達を皆、誰か他の先生にお願いしないといけないし。それに沙紀ちゃん。あの子、この頃いい音出すのよね。せっかくこれからってところで彼女を手放さなきゃいけないなんて、それも辛くてね」
こんな場面で沙紀のことを持ち出されるとは思わなかった康太は、少しばかり焦った。
絶対に自転車置き場であったことは悟られてはいけない。
康太は背筋を正して、夏子に対峙した。
「それなら心配いらないって。あいつのレッスンくらいなら、俺が見てもいいし……。とにかく俺のことはいいから、せめてお母さんと翔太だけでも先に行ってくれたらいいんだ。っていうか、俺……。日本に残りたい。今の学校でサッカー続けたい。お母さん、頼むよ。俺をドイツに連れて行くなんて言わないで……」
ついに言ってしまった。
さすがに沙紀と離れたくないからとは言えなかったが、康太はわがままを百も承知で夏子に掛け合ってみたのだ。
でも、夏子は一向に首を縦には振らない。
「康太。今更何言ってるの? 来年にはみんなで向こうに行くつもりよ。それは変えられないの。お父さんだってそれを望んでるし、康太だけを日本に残すなんて許すわけがないわ。それに……」
「それに、何? 」
「ドイツよ。音楽の本場のドイツ。私は康太の母親だから公平な視点で見てないと言われるかもしれないけど……。あなたの音楽性は私が一番よくわかってるつもりなの。向こうで専門の教育を受ければ、世界に通用するピアニストの道も望めるわ。これだけは譲れない。だからなんとしてでも連れて行くつもりよ」
康太は今何を言っても夏子の決意が変わらないのを感じ取っていた。
やはり、日本に残るのは無理なのだろうか。
「ごちそうさま……」
「康太、待ちなさい。まだお代わりもしてないのに……」
康太は夏子が引き止めるのも聞かずに、そのまま二階へ上がっていった。




