46 なみだ
康太視点になります。
前を走る沙紀の背中が次第に生き生きとしてくる。
ペダルをこぐ足も膝の故障など微塵も感じさせないくらい力強い。
彼女が負った心の傷を少しでも軽くしてあげることができたのだろうか。
康太はつい今しがた味わった彼女のぬくもりを全身で感じながら、家へと自転車を走らせていた。
サッカーの練習が終わり、家に帰ろうと自転車置き場に来ると、少し離れたところに見慣れたピンクのラインが入った自転車がまだ停めてあることに気付いた。
沙紀の自転車だった。
もうどの部活も終わっているはずなのにまだ沙紀が学校内に残っていることを、その自転車が康太に訴えかける。
最近の沙紀は、朝は康太より早く学校に向かい、帰りは誰よりも遅い。そんな日がずっと続いていた。
新入部員はしかたないんだ、と覇気のない笑顔を見せる彼女だったが、メールのやり取りも少なくなり、相当疲れているのではと心配していた。
他のサッカー部員には忘れ物をしたから教室に取りに行くと言って先に帰ってもらい、自転車置き場で彼女を待っていた。
そして、二十分ほど経った頃、沙紀がとぼとぼとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
壊れかけた蛍光灯が点滅を繰り返す薄暗い道を、彼女が肩を落とし疲れたような様子でやって来た。
そして、人の気配に気付いたのか急に立ち止まり、怯えたような顔をしている。
彼女はそこにいる人物が康太だとわかるや否や、今度はそれが信じられないとでも言うように大きく目を見開いて驚いていた。
そんな彼女が遅くなった理由を話し始め、そして、とうとう泣きだしてしまった。
大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら泣いていた。
康太はこの数カ月の間に何度か彼女の涙に遭遇している。
それは自分の不甲斐なさが主な理由だった。
でも今回は部活での理不尽な出来事に打ちのめされているという。
沙紀が辛い思いをするのは康太とて耐えられない。
彼女を守りたい。彼女を悲しみから救いたい。
康太は目の前にいる沙紀をいつの間にか抱きしめていた。
ここが学校の中で、それも自転車置き場であるにもかかわらず、腕の中に彼女を抱きとめていた。
彼女を守ってやれるのは自分しかいない。
彼女を悲しみから救うには、そうするしかなかった。
沙紀の後ろ姿を見ながら自転車を進める康太は、あの時のあまりにも大胆な自分の行動に今さらながら驚愕する。
夢にまで見た彼女の身体をこの身に受け止めた康太は、その柔らかさを、そして、その甘い香りを思い出すたび、言いようのない恥ずかしさを覚える。
今となっては、そんな彼女を真っ直ぐに見ることなどできるはずもなく、自転車通学でよかったと、ほっとする康太だった。
宣言どおり、十五分後には家に帰り着いた康太は、沙紀と玄関先で別れた後、泥だらけになったユニホームや体操着を脱衣所に置きダイニングキッチンに入った。
いつもなら台所で忙しそうに夕食準備に取り掛かっているかレッスン室にいるはずの夏子が、テーブルに肘をつき何か考えごとをしているようだった。
康太がすぐそこにいることにも全く気付いていない様子で、どこか一点を見つめたまま、微動だにしない。
「ただいま……」
夏子の背後から遠慮がちに康太が声をかけた。
「ああ、康太。おかえり。今日も遅かったわね……」
夏子は康太の声に驚いたように背中をびくつかせると、一呼吸ついて後ろを振り返り、やおら立ち上がった。
「そろそろ夕食の用意をしないといけないわね」
そう言いながらも緩慢な動きのまま食器棚に手を伸ばしたその時だった。
「きゃっ! 」
出したばかりのグラスを手から滑らせた夏子は、ガシャッと床に落ちた音と同時に悲鳴に近い声をあげた。
「おい、いったいどうしたんだよ! 」
「康太! こっちに来ちゃダメよ。指切ったらどうするの! ここは私が片づけるから、あなたは翔太を呼んできて」
夏子はグラスの破片を拾おうとする康太を引き止め、弟を呼んでくるように言った。
「わかった。でも、なんか変だよ。顔色だって悪いし……」
「ううん。何でもないわ。ちょっと疲れただけ。心配かけて、ごめんね。すぐに夕食の準備するから……」
夏子がかがんだままそっと涙を拭ったのを、康太は見逃さなかった。
康太は翔太を呼ぶためにダイニングキッチンを出て二階に上がると、両親の寝室の戸が開いているのに気付いた。
めったに入ることのないその8畳ほどの洋室に足を踏み入れた康太は、二つ置いてあるシングルベッドのひとつが最近使われていないのを目の当たりにする。
そうなのだ。康太の父親である慶太は年明け早々に、単身でドイツに渡っている。
そのため夏子はこの部屋でいつも一人で過ごしているという当たり前の事実に今改めて直面したのだ。
そして夏子のベッドの枕元には、古いアルバムが数冊積み上げられていた。
新婚旅行と、康太が生まれた時の写真が収められている物だ。
──もしかして、お母さん、寂しいのか?
康太はふとそんな風に思った。




