45 優しさと温もりと
「小笠原先輩はね、あつ……あ、いや、星川部長のことが好きなのよ。去年音楽部に入部してすぐにわかったわ。でもね、彼女はその事に気付いてない。ま、私の憶測でしかないから本当かどうかは相崎さんの判断にまかせるけど」
「そ、そうなんですか? あたし、そういうの全くわかんなくて……。でも、なんでそれがあたしと結びつくんですか? もしかして、あたしが星川先輩を好きだと誤解してるとか? いやだあ! そんなわけないじゃないですか。水田先輩だって見ればわかりますよね? あたしは星川先輩……」
「篤也は、あなたに興味を持ってるわ」
「へ? 」
沙紀は頭の中がパニック状態で、何が何だか訳がわからなくなっていた。
あつや? それって誰? でも話の流れからいくと……もしや。
「星川篤也は、あのとおり、少々融通が利かない芸術家タイプの堅物なんだけど、あなたのことはなんだかとても楽しそうに話すのよ。だからそれを副部長は本能的に感じ取って……」
「あ、あの。ちょっと待ってください! あつやさん……って、星川部長のことなんですか? 」
「あっ、ごめんなさい。そうなの……。でも誤解しないでね。別にあつや……いや、部長とは特別な関係なんかじゃないから。ただ、私の母と彼のお母さんが同じ職場の部下と上司の関係で、小さい頃から知ってるってだけ」
「そうなんですか。でも、あたしは本当に星川先輩のことは、なんとも思ってませんから。なのに、副部長が勘違いしてるって……。ああ、どうしたらいいのかな。水田先輩。あたし、副部長に身の潔白を証明したほうがいいんじゃないでしょうか? 」
「ふふふ。だから言ったでしょ。副部長は自分でも気付いてないって。相崎さんが何を言っても無駄だってこと。それどころか余計に火に油を注いでしまうかも」
なぜかこの状況を楽しんでいるようにも見える水田を前に、沙紀はオロオロするばかりだ。
「じゃ、じゃあ、いったいどうすれば……」
「そうね。しばらくは副部長のイライラが続くかもしれないけど、なんとか乗り切ってちょうだい。相崎さんには私もいるし、仲良しの井原さんもいるでしょ。他の新入生だって、副部長の気まぐれには気付いてるみたいだから大丈夫。明日早朝練習って言われなかった? 」
「ど、どうしてそれを? 」
「あのね、実は私も去年、彼女にいじめられてたの。相崎さんと一緒。私が篤也と親しくしてるのが気に障ったのね。それからは学校では一切彼を無視して、なんとか副部長の機嫌も収まったのだけど。だから早朝練習も常連だったのよ。私もたまには練習しようかな。じゃあ、明日七時にここね。さあ、帰りましょ。管理人さんが見回りに来ちゃう」
「は、はいっ! 」
沙紀は大急ぎで帰り支度を整えると杏子と一緒に部屋を出た。
「相崎さん、帰りはバス? それとも電車? 」
杏子がカバンから定期入れを出しながら沙紀に訊ねた。
「あ、自転車です。運動にもなるし、結構便利なんです。雨の日はバスですけどね」
沙紀は水田に負けじとカバンから自転車の鍵を取り出し、顔の前でキーホルダーの鈴をチリンと鳴らして見せた。
「そうなの……残念だわ。私はバスだから一緒に帰れないわね。一人で大丈夫? 」
「水田先輩って案外心配性なんですね。あたし、中学の時は陸上部だったので、逃げ足だけは誰よりも速いんです。立ちこぎだって男子に負けないくらいうまいんですよ」
「へえ、相崎さんってすごいのね。ふふふ。私のうち、歩いても近いんだけどね。親が一人歩きは危ないからバスに乗れって言うの。あっ、そろそろバスが来る時刻だわ。それじゃあまた明日! 」
水田は時計を見て、あわてて走り出した。
沙紀は先輩が校門を曲がって見えなくなると、とたんに心細くなる。
まだ職員室の明かりはついているものの、生徒はもう誰もいない。
ちょうど自転車置き場の横に差し掛かった時だった。
切れかかった蛍光灯が不規則に点滅する薄暗い屋根の下に誰かがいるのが見えた。
そしてその人影が沙紀の前にぬっと身を乗り出したのだ。
「だ、誰? 」
さっき水田に向って、一人で大丈夫と自信満々に宣言したとたんのこの失態。
沙紀は恐怖で立ちすくんでしまった。逃げ足の速さなど、何の役に立つと言うのだろう。
「沙紀。遅かったな」
その声の主は、沙紀の頭に手を載せ、優しく微笑みかけた。
「こ、こうちゃん! なんでこんなところにいるの? 」
沙紀はそこに康太がいるのが信じられないというような目で彼を見上げた。
「沙紀の自転車がまだあるから、待ってたんだけど? 悪いか? 」
「悪いだなんて。そんなことないよ! 」
「どうした。また居残りか? おまえ、あの副部長に相当シメられてんな」
「かもしんない。でもね、パートリーダーの水田先輩が助けてくれたんだ。明日の早朝練習も付き合ってくれるって」
沙紀は懸命に強がってみせた。
けれど思いがけない康太の出現にじわっと嬉しさがこみ上げてくると同時に、沙紀をいたわるような優しい目に見詰められた瞬間、もう堪えられなくなったのだ。
「おい、沙紀……」
大きく見開かれた沙紀の目から大粒の涙がポロポロ零れ落ち、康太もびっくりしたのかそれっきり口をつぐんでしまった。
「あたし、何も悪いことしてないのに、なのに、なんでか、副部長に嫌われてて。それで辛くて、悔しくて。でも、絶対泣かないって決めて、ずっと今まで我慢してきた……。でもね、水田先輩が、自分もそうだったって……。副部長は、星川部長が好きだからって……。だからもう大丈夫だって……」
沙紀は自分でももう、何を言っているのかわからないほど思考回路がぐちゃぐちゃになっていた。
つまりは、今まで辛かったけど、水田先輩に救われたと言いたかっただけなのだが。
困ったような顔をした康太が少しためらいながらも沙紀を自分の胸に引き寄せると、そっと抱きしめてくれた。
そんな康太の行動に驚いたが、沙紀もそのまま彼の胸に顔を埋めて、しばらくそうしていた。
次第に気持ちが落ち着いてくる。康太の汗の匂いがシャツ越しに伝わってきて……。
でもちっとも不快じゃなかった。ずっとこのままでいたかった。
沙紀は康太から離れると、ありがとうと言って自分の自転車のハンドルを握った。
「大丈夫か? 」
「うん。もう平気。こうちゃんのおかげで元気になれた。さあ、帰ろう。明日も早いしね」
「そうだな。それじゃあ、ひとっ走りするか。目標! 十五分後には家。いけそう? 」
「オッケー。まかせといて」
沙紀は前カゴにカバンを押し込むと、右足のペダルを力いっぱい踏み込んだ。
康太の自転車の音が背中から聞こえて来る。
彼が後ろにいる。それだけで、沙紀の心はほっこりとして、悲しいことも辛いことも、全部どこかに消えてしまった。




