44 ライバル
「相崎、遅いわよ」
小笠原がピアノの前に座ったまま沙紀を睨みつける。
「す、すみません。ちょっと友達に呼び止められてて」
「言い訳は聞きたくないわ。先輩を待たせるなんて、あなたも相当いい根性してるわね。部長が甘い顔してるからっていい気になるんじゃないわよ」
「申し訳ありません」
沙紀は謝った姿勢のまましばらくじっと足元を見ていた。
昨日も一昨日も言われた。部長が甘い顔してるからっていい気になるんじゃないわよと……。
そうか。そうなんだ。星川部長が時折り沙紀のそばにやって来て、少しずつ慣れていけばいいとか、その調子で頑張れだとか、声をかけてくれることがある。
それが小笠原には納得できないのかもしれない。
と言っても、星川は男性パートのまとめ役もしているので、ほとんど練習中に一緒になることはない。
今日だって、一度も部長の姿を見ていないのだ。
ならばいったい小笠原の怒りの根源がどこにあるのか、沙紀はまだ見つけられないでいた。
「今日は、楽譜整理をやってもらいます。ずっと相崎の指導にかかりきりだったから副部長としての仕事がたまってるのよ。リストに照らし合わせて、その箱の中にある楽譜を時系列にそって並べてファイルしてちょうだい。あたしは部費の会計報告があるから。それじゃあ頼んだわよ」
「は、はい……」
「それと……。相崎はまださっき言ってた合唱組曲の譜読みはしなくてもいいから。そんな状態で歌ってもらったって、みんなが迷惑するだけだから。明日、早朝にここで基本の発声練習だけすること! いいわね! 」
小笠原はそれだけ言うと、ドアをピシャっと閉めて出て行ってしまった。
五月になり日は長くなったといっても、部屋の中はもう薄暗い。
沙紀は電気をつけて、小笠原の示した箱の中を覗いてみた。
そこには印刷された楽譜が無造作に投げ込まれている。何十枚、いや何百枚も。
過去に練習した曲なのだろう。ここからリストに沿って楽譜を見つけ出し、並べてファイルするのだ。
ひとつの曲が何枚にも分かれていて、おまけにそれがバラバラにあちこちに入り込んでいる。
沙紀は一瞬にして気が遠くなりかけたが、もたもたしていたらいつ終わるかわからない。
幸い、小笠原はここにいない。
沙紀は昨日までの息の詰まる個人指導よりは何倍もマシだと自らを奮い立たせ、仕事に取り掛かった。
やり始めると、意外とおもしろいことに気付く。
そこには知っている曲もあれば、全く聴いたことのない曲もある。
沙紀は楽譜が読める上に、同時に紙面上の音階が頭の中でメロディーを奏でるという隠し技を自然と身につけていた。
それが四部合唱の曲で、四つのパートにメロディーが分散して書かれていたとしても、和声として音が頭に鳴り響くのだ。
さっき、小笠原に合唱組曲の譜読みはしなくてもいいと言われたが、曲集をもらった時に中を見て、すでに最後まで譜読みは出来ていた。
いつの間にか鼻歌交じりで作業を進めていた沙紀が、ドアをノックする音に再び緊張感を蘇らせた。
「は、はい。どなた……でしょうか」
「あっ、相崎さん! まだいたの? どなたでしょうかじゃないわよ。あれっ、一人? 」
「はい」
パートリーダーの水田だった。
「電気がついていたから、誰かが消し忘れたのかと思って来てみたんだけど」
水田が驚いた顔をして沙紀を見ていた。
「水田先輩。それが、あの……。小笠原先輩に楽譜の整理を頼まれて……。もうすぐ終わりますので、先輩はどうぞ帰ってください。あたし、戸締りもちゃんとしておきますから」
「ずい分前に、小笠原先輩が帰るのを見たわ。私はクラス委員会の会議があったから、今まで残っていたんだけど。……じゃあ、一緒にやってしまいましょう。手伝うから」
水田は沙紀に有無を言わせず、残り少なくなった楽譜に手を伸ばす。
「先輩。ありがとうございます」
「何言ってるの。同じパートの後輩をたった一人で作業させるなんて、私にはできない」
瞬く間に作業が終わり、沙紀はふと窓の外を見た。
もうとっくに日は沈み、夕焼け空の名残りが西の空にかすかに赤みを滲ませている。
さっきまで聞こえていたサッカー部の声もすっかり鳴りをひそめ、車の行き交う音しか聞こえない。
「相崎さん、もう帰ろ。あなた本当によくがんばってる」
「そんなことないです。あたしはただ、言われたことをやってるだけで……」
根っからの負けず嫌いがここでも威力を発揮するのか、沙紀は窮地に追い込まれれば逆にやる気がみなぎり、どこまでも食らいついてしまう。
「小笠原先輩がなぜ相崎さんに辛くあたるか……あなた、わかる? 」
「あ、はい。たぶん、ですけど。あたしが初心者で、歌がうまく歌えないから、先輩を怒らせてしまうんだと思います」
「ふふふ。そうね、表向きはそのとおりかも。でもあなたは天性の勘を持ってるっていうか、音感がいい。音程もよく取れてるし、声も随分出るようになってるし」
「そうですか? あ、ありがとうございます」
「小笠原先輩はね、歌に関しては私たちも太刀打ちできないほど素晴らしい実力の持ち主なんだけど、こと恋愛に関してはからっきし鈍くて、うまく立ち回れないみたいで。多分……。相崎さんを本能的にライバル視してるんだと思う」
「ライバル視? 」
「うん。それはね、こういうことなんだと……」
沙紀はますます水田の言いたいことがわからなくなっていた。
小笠原が自分のどこをライバル視するというのだろう。
歌の面では何一つ小笠原に敵わないのに、何を競うと言うのだろう……。
沙紀は水田の答えを、今か今かとドキドキしながら待った。




