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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第四章 ショパン バラード 第一番
44/188

42 バラードの余韻

 沙紀は先輩二人の会話よりも、康太の選曲に例えようのない胸の高鳴りを覚えていた。

 バラード第一番はピアノ曲の中で沙紀が一番好きな曲なのだ。

 もちろん康太もその事は知っている。

「いつか弾いてやるからな……」と康太が昔から言っていた曲だ。

 まさか今、こんなところで聴くことになるとは、沙紀にとっては驚き以外の何物でもない。

 彼がこの曲を年末から練習していたのは知っていた。

 けれどこのように同じ空間で最初から最後まで聴くのは初めてだ。


 康太は大きく息を吸い込むと、両手の指を低音部に添える。

 そして、ゆっくりと鍵盤の上を左から右に、低音部から高音部へと一音一音確かめるように指を下ろしていく。

 次第に音が厚みを増してゆき、リズムもテンポも最高潮に達したあと、まるで遠くの街から鳴り響く鐘の音のような和音が耳をかすめ、沙紀の大好きな部分へと移行していくのだ。

 目を瞑っていると、甘くうっとりとまるで恋人のことを思っているような、そんな夢心地に浸って心の中がとろけそうになる。

 それが全て康太の指から紡ぎ出されているのかと思うと、CDで聴くどんなに有名なプロの演奏よりも、沙紀の胸に鮮やかにメロディーが刻みつけられるのだ。

 いつの間にこんなに弾けるようになっていたのだろうと不思議に思うと同時に、理由がどうであれ、こうやって音楽室で聴けたことは、沙紀にとっては思いがけないサプライズであり、この上ない幸せであると感じてもいた。

 もし星川が沙紀を呼び止めていなければ、この場所に居合わせることはなかったのだ。

 奇遇ともいえる巡り合せに、沙紀は心の中で感謝せずにはいられなかった。

 その間も曲はどんどん進行してゆき、右手の五本の指を全部を使う、オクターブを駆使した和音の展開部も、無理なく鮮やかに音を響かせる。

 見た目のタッチは柔らかいのに、それでいて音はシャープに、切れ良く鳴る。

 これは康太特有の演奏技法で、周りの空気をも取り込んで、音を七色に織り成していくのだ。


 あれから星川のポーズは一度も変わっていない。

 胸の前で組まれた腕の一方の手をあごのあたりに添え、目をつぶったまま、呼吸をしている様子も感じられない程じっと音に聴き入っている。

 とうとう最後のクライマックスを迎え、フォルテ記号が三つも並ぶ終盤の数小節を一気に弾き切った。

 彼の額を流れていた汗が、鍵盤の上をもぬらしている。


 最後まで弾き終えた今、彼は充足感で身も心も満たされているようだった。

 最後の音の余韻が室内から消えていくのを確かめるようにして、星川が閉じていた目を開き康太をじっと見据える。

 そして、組んでいた腕を解くと、手を合せ(おもむろ)に拍手を始める。

 それを見ていた横田もあわてて拍手をし、小笠原も、沙紀も、康太に惜しみない拍手を贈った。


「吉野、素晴らしかったよ。君のバラードの解釈は俺のと重なり合う部分が多い。まさか北高でこれだけの弾き手に会えるとは思わなかった。それなのにサッカー部だって? 今すぐにでも合唱部に引き抜きたいくらいだが……」


 そう言って、星川は隣の横田をちらっと見た。


「お、おい! それは辞めてくれ。吉野はサッカー部が先に唾をつけたんだからな。おまえにはやらんぞ」


 横田は星川の話を真に受けたのか、あわてて背筋を伸ばし、ムキになって言う。


「吉野、俺はいつでも待ってるから。横田の許可が出たら合唱部へ来いよ」


 本当とも冗談とも取れる星川の勧誘に、康太は遠慮がちにうなずいていた。


「いやいや、勘弁してくれよ。おい、吉野。ピアノは家でいくらでも弾いたらいい。だから、サッカーだけは、何があってもあきらめるな。間違っても星川に乗せられるなよ」

「横田。まあ、そこまでムキになるな。でもよくぞ彼をここまで連れて来てくれたもんだよ。ただ者じゃないぞ。今すぐにでも留学を進めたいくらいだ……。もちろんサッカーで、ではなくて、ピアノでの留学だ」

「いや、確かに。素人の俺でも、吉野のすごさが伝わってきた。ピアノって、こんなに大きな音が出るのか? 小さい女の子が優しそうに弾いているイメージしかなかったけど。そうか、ピアノってこんなにも奥が深いんだな。ってか、かなりの力仕事だよな? 」

「ああ。実際よく耳にするピアノ曲は、圧倒的に西欧の男性作品が多いんだ。だから表現する時、力強さも必要になる。吉野は身体にも恵まれているようだから、これからますますいい音を出すようになるだろうな」

「おいおい、星川。おまえ、変わったな。そこまで他人を褒めるところ、初めて見た気がする。そうか、そういうことか。天下の星川をもうならせる演奏だったというわけか」

「まあ、そういうことだ」

「なるほどね。ピアノのことは全く知らない俺にも、何か尋常じゃないことが起こっているというのはわかった。星川。お前の言葉を信じるよ。吉野のピアノ演奏はある意味北高の……いや日本の宝なのかもしれないな。だが、かといって部活での特別扱いは出来ないが……。キーパーの件は監督にも相談してよく考えてみることにする」

「そうだな。まあ、テレビでJリーグや日本代表の試合を見る限りでは、キーパーはピアニスト向きのポジションではないことだけは確かだと思う。だが、スポーツはいいと思う。両立できるならどんどんやればいい。ピアノもコンチェルトになると、演奏時間も長くなるし体力勝負だからな。サッカー、いいんじゃないかな」

「そういえば星川も昔やってなかったか? サッカー」

「まあな。少しかじった程度さ。にしても今日は参ったよ。今のサッカー少年といい、あそこにいる新入生代表といい、北高にピアノ科を作る方が先決かもな。校長に掛け合ってみるか……。あははは……! 」


 その時小笠原が驚いた顔をして星川を見ていた。

 そして、沙紀の横で何やらボソボソとつぶやき始めた。


「ちょちょちょ、ちょっと。相崎さん。ぶぶぶ、部長が……」

「どうしたんですか? 」

「笑ってる……。さっきから何度も。信じられない」

「え? 」


 沙紀は小笠原の言っていることの意味がよくわからない。


「合唱部に入部して丸二年。部長の笑い声を聞いたのは、今日が初めて。ああ、びっくりした」


 星川の笑う場面はレアだったらしい。

 沙紀は、康太の演奏をここまで賞賛してくれている星川に対して、さっきまでの緊張感が急激にほぐれ始め、ほんの少しだけ部長と距離が近付いたような気がしていた。


読んでいただきありがとうございます。

康太の弾いたこのバラード第一番は、ご存じの方も多いと思いますが

平昌オリンピック2018で金メダルに輝いた羽生結弦選手がショートプログラムで使った曲です。

その曲を高一の康太が頑張って弾きました。

沙紀が聴いているだけに、より一層心を込めて弾いたのではないでしょうか。


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