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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第四章 ショパン バラード 第一番
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38 怒涛のスケルツオ

 ではなぜ、後で聴かせてもらおう、などと意味不明な要求をされたのだろう。

 もしかしたら。合唱の伴奏を頼まれるのかもしれない。それなら合点が行く。

 中学生の時も、校内合唱コンクールではいつも伴奏を頼まれていたので何も特別なことではない。

 それで、どれくらいのレベルで弾けるのかをテストされるのだろう。

 高校の合唱曲は難易度も増すだろうし、それも仕方がない。

 まあ、その結果、伴奏者として認められたのなら引き受けてもいいと思う。

 膝が完治するまでは陸上部にも参加できない身であればなおさら、引き受けることに躊躇する理由はどこにもない。

 大好きなピアノでまどかと同じ時間を共有できるのなら、それもひとつの選択肢だと自分に言い聞かせる。

 沙紀はあれこれ理由を考え自分なりの答えを導きだしてみたが、とにかく少しでも早くこの窮屈で居たたまれない空間から解放されて自由になりたいとそればかり考えていた。

 すると前にいる首脳陣の会話が止み、ギギッとピアノの椅子を引いた星川が沙紀を呼んだ。


「そこの新入生、こっちへ。さあ、弾いてみて……」


 ビクッと肩を震わせた沙紀は、はい、と小さく返事をして、ためらいがちにピアノに近付いていく。

 椅子に腰掛け、鍵盤との高さ具合を確かめた。椅子が高すぎても低すぎても、うまく弾けないのだ。

 鍵盤の上に手を載せてみる。指が小刻みに震えているのがわかった。

 こんな状態で弾けるのだろうか。不安のあまり呼吸も粗くなる。


「あなた、相当緊張してるみたいね。毎年合唱も吹奏楽も経験のない子が、何人か入部してくるのよね。ピアノ弾けます! って高らかに宣言して。そのくせ、楽譜もろくに読めなかったり、ソナチネもまともに弾けなかったりで、もう散々なありさま。……別にあなたがそうだって言ってるんじゃないわよ」


 小笠原の馬鹿にしたような言い方にますます沙紀の緊張度が増してくる。


「あら、図星? 部長や私の目が節穴だと思ったなら大間違いよ。さあ、弾いてみなさいよ。ピアノが弾けるって言ったのはあなた自身なんだから」

「あの……。何がおっしゃりたいのかよくわかりませんが。あたし、さっきも言ったとおり入部希望じゃないんです。そんな風に言われてまで、ピアノ、弾きたくないです……」


 とてもじゃないが小笠原の顔を見てそんなことは言えない。

 沙紀は鍵盤を凝視したまま消え入りそうな声で、ちょっとだけ反抗してみた。

 すると二人のやり取りを横で聞いていた星川がコホンと軽く咳払いをして言った。


「そんなことはどうでもいい。新入生、気にせずショパンを弾いてみて」と。


「は、はいっ。では、スケルツオ二番弾きます……」

「スケルツオ? ほう、なかなかの選曲だな」

「あの、だめでしょうか」

「いや、そんなことはない。なるほどね、まさかスケルツオとは……。相当弾けるみたいだな。まあ外野は気にせず、そっちのタイミングで弾き始めてくれ」

「あ、はい」


 沙紀は今暗譜で弾けるショパンの曲をいくつか頭に思い浮かべたが、去年の春に発表会で弾いたこの曲ならなんとかなるだろうととっさに思いついた。

 プレスト……。

 非常にテンポの速い壮大な曲であるが、流れるような左手の分散和音に、高音部のメロディーが優しくも強さを秘めて奏でるあたりが、沙紀の負けず嫌いの心を充分満たしてくれる。

 弾いていてスカッとする、気持ちのいい曲でもある。

 さっきの小笠原の嫌味を吹き飛ばすかの勢いで、低音の三連符の後、教室の窓がピリピリ鳴るほどの和音を響かせ、鍵盤の上を沙紀の指が右へ左へと駆け抜けていく。

 星川は微動だにせず黙って沙紀の演奏を聴いていた。

 小笠原にいたっては、きょとんとした目をして口をぽかんと開け、その場に固まっているようにも見える。

 曲が進むにつれ、沙紀の目には星川も小笠原も視界に入らなくなる。

 そこにあるのはピアノだけ。そして、沙紀自身の存在だけだった。

 沙紀はこの曲が大好きだった。

 練習を始めたばかりの頃は、オクターブの和音をうまく捉えられず、苦労もした。

 単音の部分もかなりの速さを要するため、指が滑ってしまうこともあった。

 練習に練習を重ね、曲の全容が把握できるようになると、ぐんぐん面白くなり、この曲がますます好きになっていく。

 そして、発表会の後、彼が言ったのだ。

「俺が弾くより、沙紀が弾いた方がなんかしっくりくるな。沙紀のスケルツオ、嫌いじゃないよ」と。


 その時はそうかな、くらいにしか思わなかったけれど。

 彼と心を寄せ合うようになった今では、康太のその言葉が胸にしみわたり、弾くたびに彼と一体化したような気持ちになるのだ。

 そろそろ曲の終盤に差しかかろうとした時だった。

 音楽室の外が急にざわついたかと思うと、その場に全くふさわしくないサッカー部員らしき人物がドタドタと入ってきたのだ。

 沙紀はあわてて演奏をストップさせる。


「いいから、続けて」


 星川がそう言い残し、沙紀のそばを離れてサッカー部員のところへ歩み寄る。

 あともう少しで終わりというところだったが、やはりただごとではない二人の邪魔になってはいけないと思い演奏を再開することは断念した。


「横田? なんか用か? 」

「ああ星川……。練習中にすまない。ちょっと頼みごとがあって……」


 そして、その二人の背後にある入り口の方に目を向けた。

 するとそこには。

 沙紀の見覚えのあるよく知る人物が、いや、誰よりも愛しくて恋しいあの人が、なぜか……。

 サッカーシューズを履いたままの姿で、その場にポツンとたたずんでいた。


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