2 おとなりさん
学校生活も慣れてきた五月のある日、沙紀は庭でポチとじゃれ合いながら何気なく隣の庭に目をやった。
沙紀の家の庭にはレンガが敷き詰められ、周囲にはパンジーが植えられている。
休日に徹と春江が近所のホームセンターで材料を買い揃え、沙紀も一緒に手伝って完成させた手作りガーデンが、春の陽射しに照らされて鮮やかに浮かび上がる。
ところが隣の庭はまだ何もなく、雑草が我が物顔で生い茂っているだけだった。
ポチもフェンスに鼻をくっつけて隣の庭を覗き込んでいる。
不思議に思った沙紀は洗濯物を取り入れている春江にねえ、ママ、と春江のエプロンの裾を引っ張った。
「隣のお庭は、どうして草がいっぱい生えてるの? どうしてお花が咲いていないの? どうしてずっと雨戸が閉まったままなの? ねえ、どうして? どうして? 」
沙紀は自分の家と違った様子のとなりが不思議でたまらないのだ。
腕を組んで、首をちょこんとかしげている。
春江は、確かあの方たちが入居されるはずなんだけど……と住宅の抽選の時に目にした年配の夫婦を思い浮かべていた。
それにしても入居が遅い。どうしたんだろうと春江も沙紀と同じように腕を組み、あれこれ考えを巡らせていた。
隣に誰も暮らしていないのは何かとさびしいものでもあるし、防犯面からみても物騒であることは否めない。
「沙紀ちゃん。お隣さんはね、まだ引っ越して来てないのよ。どうしたのかしらね。パパもママも待ってるんだけど……」
「ふーん。そうなんだ。どんな人が来るのかな? 早く会いたいな」
「そうね。早く会いたいわね。でもね、ここに引っ越す予定の人は、お年寄りのご夫婦なの。小さい子どもはいないみたいだったから、沙紀ちゃんはつまらないかもしれないわ」
「お年寄りでも別にいいよ。その人たちが来たら、ポチを見せてあげるんだ。そして学校で習った歌を全部教えてあげる。楽しみだな。早く来ないかな……」
沙紀は本当に待ち遠しくて仕方ないのだろう。
手をたたいてスキップをしながら、ポチと一緒にいつまでも庭をくるくる回っていた。
隣に人気のないまま相崎家は夏休みを迎えていた。
もらって来た時より随分大きくなったポチの散歩のため、玄関で仕度を整えていた春江のもとに、目を輝かせた沙紀が外から勢いよく駆け込んできた。
「ママ、ママ! 来た、来たよ! 」
「まあ、沙紀ちゃん。何をそんなに慌てているの? 」
春江は、ことのほか興奮している沙紀を落ち着かせようと、しゃがみこんで沙紀の目の高さに自分の目線を合わせ、彼女の両手を握った。
「あのね、あのね、お隣さん、来たみたい。子どももいるよ。おじちゃんと、おばちゃんと……」
沙紀は息を弾ませて何度もうなずきながらしゃべり続けるのだが、春江には状況がいまひとつ理解できない。
お隣さんが来たって、どういことだろう。確かに大きな車のエンジン音がして人の声がする。
沙紀の言ったとおり子どもの声も耳に届く。
外に出るタイミングを失った春江と沙紀は、玄関でお互いの顔を見合わせたまま、息を潜めて外の気配に耳をそばだてていた。すると突然チャイムの音が鳴った。
「ねえママ。きっと、あの人たちだよ」
沙紀は頬を紅潮させながら精一杯小さい声で春江に伝える。
春江は沙紀に向って大きく頷き、立ち上がって深呼吸をした。
そして玄関のドアをそっと開けると、そこには……。
日付が変わった頃帰宅した徹が、起きて待っていた春江のいるリビングに入るや否や、開口一番、昼間の出来事を立て板に水のごとくあびせられる。
春江は隣に引っ越してくる家族が挨拶に来たことを、徹にこと細かに話して聞かせたのだ。
四人家族であること。そして沙紀と同学年の男の子と三歳の弟がいること。
母親はピアノの先生をしていて、教室を開くのでいろいろ迷惑をかけるかもしれないと詫びていたこと。そのため明日から防音工事が始まること。
そしてここが一番肝心だと、春江が力説しながらこの家族が隣に引っ越すことになった理由を熱く語る。
キャンセル発生のため、次点から繰り上がって急遽入居が決まった、というのが事の真相らしい。
春江は身振り手振りを交えて、もうすでに三十分は語っているのだが、仕事の疲れを口にするでもなく食事を催促するでもなく、延々話につき合わされている徹は、夫としては百点満点の相槌を健気にも休むことなく打ち続けていた。
「ところで春ちゃん。お隣の名前はなんて言うんだい? 」
ようやく質問のチャンスを与えられた徹は、ごく基本的な疑問を春江にぶつける。
「えーっと……。確か聞いたのよ。なんだっけ? 」
「おいおい、一番大切なことだぞ。名前くらいきちんと覚えておかないと」
「そうそう! 思い出した。吉野さんだわ。あなたのお友達と同じ名字だなって思ったから」
「吉野? そうか。吉野って言っても日本中にはたくさんいるからな……って、春ちゃん、今キャンセルがどうのって言ってなかったか? 」
「もう、あなたったら私の言ったことちゃんと聞いてなかったのね。キャンセルが出て、つまり抽選の時来てらした年配のご夫婦が入居予定だったけど辞めたってことよね。それで次点だった吉野さんが繰り上がったの。わかってくれた? 」
春江は徹が上の空で適当に相槌を打っていただろうことは薄々気付いていたが、こうもあからさまに言われると、無性に腹立たしくなる。
徹に向かって大声を出しそうになるのをどうにか押さえて、ふうっとため息を漏らした。
「ごめん、ごめん。悪かったよ。春江さん、どうか機嫌を直してくださいな」
「まったく、調子いいんだから。で、吉野さんのことで何か思い当たることでも? 」
徹が何かを思い出すように記憶の糸を手繰り寄せているのを感じ取った春江は、気を取り直して徹の返事を待った。
「ポチをもらいに行った時、吉野が言ってたんだ。弟夫婦がこの辺の家を買おうとしてたけど抽選に外れたって……。しかも俺たちの結婚が決まった頃あいつの弟も結婚が近くて、音大出の自分と同い年の妹が出来るとも言ってたなぁ……。春ちゃんの言う、その挨拶に来た吉野さん。もしかして、吉野の弟夫婦じゃないのかな? 」
「う、うそ! そうなの? そう言われれば旦那さん、吉野さんに似てたかも」
「今夜はもう遅いから聞けないが、明日吉野に電話して尋ねてみるよ。多分そうだと思うけどな」
「もしそうなら隣の家族と気兼ねなくお付き合いできるじゃない! 子どもも同い年だし話も合いそうだわ。吉野さんの親戚なら、こんなに素敵なことはないわね。ねえ、あなた」
「そうだな。こんな偶然、なかなかないぞ」
「そうね。不思議なご縁ね」
などと、まだ友だちの弟夫婦だと決まったわけでもないのに、二人の会話は盛り上がって行く。子どものようにわくわくする気持ちを隠しきれず、胸をはずませる相崎家の夫婦だった。