37 そこの一年生
沙紀はピリピリした空気を全身で感じながら、まどかに無理やり引きずり込まれるようにして音楽室に入った。
するともうすでに五十人以上はいるであろう一年生が、全員後方の椅子にずらっと並んで座らされていたのだ。
「まどかちゃん、あたしなんかがここにいてもいいのかな。さっきも叱られたし、ちょっと怖いよ」
「何言ってんの。平気平気。あたしたちの後ろの方でもしゃべってる人いたから、そっちに注意したのかもよ。気にすることないって。沙紀はここに座って歌だけ聴いていればいいんだからさ」
「でも。なんか場違いっていうか、あたしなんかお呼びじゃないっていうか」
「いいから。ここはあたしを助けると思って、そばにいてよ。ね、沙紀」
小さい声でこそこそと話しながら、まどかが自分の隣の椅子をポンポンと叩いた。
だがしかし。さっきの星川の指揮棒は誰がどうみても沙紀たちの方を指していたように思う。
決して後ろの生徒に注意したのではなかったはずだ。
それに高校三年生ともなれば、沙紀から見れば星川は充分に大人の男性に見える。
そんな人から入学早々睨まれ、平然としていられるわけがない。
せっかくの高校生日本一のハーモニーも、沙紀の心には全く何の感動も残さなかった。
それどころか、恐怖のメロディーとして身体にしみ込み、今後も何かあるたびに思い出して恐ろしさのあまり、悲鳴をあげてしまうかもしれないのだ。
まさしくトラウマ状態だ。
消えるようなピアニッシモで混声合唱が終わりを告げる。
一呼吸置いた後、観客である一年生の座席からは割れんばかりの拍手が巻き起こっていた。
はっと我に返った沙紀はあわてて拍手に便乗する。
隣のまどかは純粋に惜しみない拍手を贈っているようだ。
星川が中央の台から降りてピアノの方に歩いて行った。
歌っていた先輩たちにも安堵の様子が見て取れる。
これで部活見学のためのミニコンサートはすべて終了したのだろう。ああ、終わった、終わった。
やっと肩の力が抜け、これでここから出て自由になれると思ったのも束の間、ピアノのそばで控えていたストレートのロングヘアーの女子生徒がすくっと立ち上がり話し始めた。
「新入生の皆さん、わが合唱部へようこそ。昨日の段階で、もう二十名の入部が決定しています。本日ここに来ている二十名以外の皆さんも入部の意志がある人がほとんどだと思います。では一人ずつ出身中学と音楽経験暦を自己紹介を兼ねて言ってください。あっ……。申し遅れましたが、私は合唱部副部長三年小笠原です。そして今指揮をしていたのが部長の星川です。では、前の席右側のあなたから」
順番に自己紹介が続いていく。沙紀の知らない中学の名前も聞こえてくる。
そして皆、合唱か吹奏楽の経験者だった。
だが、沙紀には所詮関係ないことなのだ。
とにかくここから出るのが先決とばかりにタイミングを見計らっているのだが、なかなかその時が訪れない。
もたもたしているうちに、隣のまどかの番になった。そして……。
「次はあなたよ。早く立って! 」
えっ? あたしはいいの、違う違う、と顔の前で手をひらひらと振っていた沙紀に小笠原の容赦ない叱責が響いた。
「もたもたしないで。早くしなさい! 」
「あ、あの……。あたしは……友だちに付いて来ただけで、入部希望じゃ……あ、ありませんが」
沙紀はびくびくしながら答える。隣のまどかも顔が引きつっているのがわかる。
「あらそう。じゃあ、用がないならすぐ出て行ってちょうだい! 迷惑よ」
「す、すみません。……まどかちゃん、ごめん、またあとで……」
まどかにそっと手を合せて謝り、その場から立ち去ろうと音楽室の後方のドアに行きかけた時だった。
「待て」
静かな低い声が沙紀を呼び止めたのだ。
「そこの一年生。昨日の新入生代表か? 」
前方の窓寄りの席で足を組んで座っている星川が沙紀に声をかけたのだ。
沙紀はびくっと身体を震わせたあと、こくんと頷いた。
その時、二、三年の部員たちからどよめきが起こったが、次の星川の言葉で教室が再び静まり返った。
「昨日のスピーチ聞かせてもらった。いい声だな。歌はやらないのか? 」
沙紀は自分がみんなの注目をあびているのが気恥ずかしく、緊張してうまく答えられない。
「そ、その……。う、うたは……あまりやりません。というか、音楽の授業以外では全く歌いません……」
「歌はやらないということは、他に何かできるのか? 吹奏楽の経験とかは? 」
「あ、ありません。何もできません……。あ、いや、……その……ピ、ピアノを少し……」
ピアノという言葉に反応した星川は、すかさず聞き返してくる。
「ピアノね。……何を弾く? 」
どうしてみんなの前でこんなことを聞かれるのか内心穏やかではないが、心の中まで見透かされるような真っ直ぐな視線を投げかけられた沙紀は、まるで金縛りにでもあったかのようにその場から動けなくなってしまった。
そして動転しながらも必死の思いでぽつぽつと答える。
「……ショパン、とか、ベートーベン、あと、プロコ……とか、です」
「ほう……。では後ほど聴かせてもらおう。そこの席に座って待ってろ」
とうとう沙紀は音楽室から退出できないまま、他の入部希望者と一緒に自己紹介を最後まで聞かされる羽目に陥った。
時折、沙紀に浴びせかけられる二、三年の部員の冷たい視線を強く感じながら……。
「ではこの後は各パートに分かれて六月のコンサートの練習を始めてください。新入生も見学するように。では解散」
小笠原の指示に従って、全員が別の教室に移動していく。
音楽室に取り残された沙紀は、ピアノのそばで話をしている星川と小笠原をちらちら見ながら、自分はこの後どうすればいいのだろうと、落ち着かないままだった。
ああ、こんなことなら、ピアノをやってるなんて言わなければよかった。
いや、まどかに誘われた時、用事があるとか何でもいいから理由を言って断ればよかっただけだ。
こんなところまでのこのこ付いて来た自分がバカだったというわけだ。
そして、自己紹介が始まる前に、とっとと音楽室から逃げ出すべきだったのだ。
などと後悔してももう遅い……。




