36 鷹のような目をした人
沙紀視点になります。
高校生活二日目の朝、教室で名簿順に決められた座席に着いた沙紀は、後ろの席の井原まどかに話し掛けていた。
「まどかちゃん、そのペンケースいいなあ。どこで買ったの? 」
「これは駅前の文具雑貨店で買ったんだ。とっても使いやすいよ」
まどかが金色のファスナーをスルスルと開け閉めして、使いやすさをアピールしている。
色は薄いブルー。手作りっぽい感じのペンケースに沙紀は一瞬にして心を奪われてしまった。
「なんか、かわいいね。あたし、まだ中学の時のまんまなんだ。今度買おっかな」
「ねえ、沙紀。おそろいにしようよ。色違いもあるし。ね、そうしよう」
「うん。今度の土曜日に買いに行くね。あたしはピンクにしよっかな。ところでまどかちゃん。服とかはどこで買ってるの? 」
「服? 」
「うん」
「やっぱ、駅前のショップが多いかな。あ、でも、お母さんに便乗して、ネットで買うこともあるよ」
「そっか。うちの親はネットでは買わないみたいだし。今度自分で挑戦してみようかな。サイト名教えてくれる? 」
「いいよ。……って沙紀。ついにおしゃれに目覚めたんだね」
「うん。ほんの少しだけね」
沙紀は今まであまり服に興味がなかったので、必要最小限しか持っていなかった。
しかし、休日に康太と出かけることも増え、いつも同じ服というわけにはいかなくなったのだ。
中学の時からおしゃれだったまどかに相談すれば間違いない。
今度ネットで買って彼に自慢してみよう、と一人ほくそえんでいたのだが。
「へえーー。最近の沙紀はなんだか女の子っぽくなったから、カジュアルなものより、フェミニンなワンピとかどう? 髪も長くなったし、乙女路線に変更しちゃえばいいのに。……ねえ沙紀。あたし前から思ってたんだけど、沙紀って誰か好きな人でもできたんじゃない? 実はカレシがいるとか……」
おもいがけないまどかの突っ込みに思わずのけぞりそうになったが、ここでばれるわけにはいかない。
気を取り直して反論する。
「そ、そ、そんなわけ、ないじゃん。まだ高校に入学したばっかだよ。これからいろいろ楽しいこともあるだろうし、今はまだ、カレシとか……そんなの考えられないよ」
「ホント? なんか怪しいけど……。まあそのうち教えてね。だって昨日、川沿いのファミレスに誰かと一緒にいなかった? 」
えっ! 見てたの? 沙紀は口に出して言いそうになるのを何とか押さえ込む。
まどかに康太との関係を知られてしまったら最後、すぐにでも彼の母親の耳に入ってしまう可能性がある。
まどかも康太の母親のピアノ教室の生徒だったのだ。
「ひ、人ちがいじゃない? 」
沙紀はなんとしてでも否定しておきたかった。
「いーーや。あれは完全に沙紀だったよ。ただカレシの方がよく見えなかったのよね」
「まどかちゃん。それ、絶対に見間違いだって」
「んもうっ! あたしの持ち前の視力でバッチリ見えてたんだから。沙紀も隅に置けないね。まあいいわ、そのうち白状させるから……。そうそう部活何にするか決めた? やっぱ陸上? 」
「まだ決めてない。でもね、足の調子が悪くて……。走るのは当分無理かもしれないんだ」
昨日の康太とのデートの追求はどうにか回避できたようだったが、足のことはうそはつけない。
沙紀はまどかに今の足の状態と正直な気持ちをあらいざらい告げた。
「……そうだったの。悪いこと聞いちゃったね。でも半年経てば治るかもしれないんでしょ? なら何の問題もないじゃん! 今はとにかく治療に専念して、無理をしないことだよね。あたしだったらマネージャーもやりたいかも。だって陸上部って、筋肉モリモリのイケメン先輩が何人かいるでしょ? それっておいしくない? あっ、そうか。沙紀は謎のカレシがいるんだもんね。イケメン探しやってる場合じゃないか……」
「もう! まどかちゃんったら。だからそんなカレシはいないって言ってるし。もしいたら休み時間にまどかちゃんとずっと一緒にいるわけないじゃん! 」
危ない、危ない。彼女の推測が当たっているだけに、ついうなずいてしまいそうになる。
「それはそうだけど。でもさ、他の学校の男って可能性もアリだよね? 実は東高あたりにいるとか。いや、西高にも陸上部の誰かがいるよね……」
「そんなの、ありえないってば」
まどかの想像力のたくましさにはあきれるばかりだが、康太のことは全く疑っていないとわかっただけでも大きな安心材料になる。
まどかのおしゃべり好きさえなんとかなれば、別に康太のことを知られてもいいのだけど、などと沙紀の悩みはまだまだ尽きない。
「でね、あたしは合唱部に入ろうと思ってるんだ。だって去年、コンクールで全国大会出場だよ! すごくない? ねえねえ放課後練習見学に行きたいんだけど、沙紀について来て欲しいんだ……。お願い! 」
「オッケー」
どうせ康太は部活で遅くなるし暇だし……。
合唱部には全く興味はないが、ついていくくらいならお安い御用だと、沙紀は二つ返事で了解した。
ピアノも弾くし音楽も嫌いではないけれど、沙紀はどういうわけか合唱だけは、どうも気恥ずかしくてずっと苦手だと思っているのだ。
夏子に一度、その声を生かして声楽をやってみないかと言われたことはあったが、返事をしないまま、うやむやになっているという過去もある。
まどかは翠台中学で、吹奏楽部に所属してフルートを担当していた。
ところが、ここ北高には吹奏楽部という単体の部はなく、合唱部が、体育祭や運動部の応援の時のみ、俄かにブラスバンドを結成するというお粗末なものしかない。
したがって中学校での吹奏楽部経験者は、軽音楽部か合唱部へと鞍替えする場合が多くなる。
放課後まどかに引き連れられて音楽室の前まで来た沙紀は、廊下の窓から見える指揮をしている男性に、見覚えがあることに気付いた。
どことなく康太にも雰囲気が似ているその人。
確かにどこかで見たような気がするのだが……。
「沙紀、どうしたの? 何見てる? ……ああ! もしかして指揮してる人? 」
「あ、そうだけど。なんかどこかで見たことあるような気がして」
「あの人はね、合唱部部長の星川先輩だよ。ほら、昨日体育館でピアノ弾いてたでしょ? 」
「ああ……。思い出した。ちょうどあたしが座ってた前がピアノだったから。そっか、あの人だったんだ」
「ねえ、素敵だと思わない? 彼ってあたしの好みなの。ほら見て、廊下の人だかり。みんな先輩狙いなのよ。彼のおかげで、去年は過去最高の入部人数だったってウワサよ」
「そこ、静かに! 」
星川が指した指揮棒の先は……。正真正銘、まどかと沙紀の方向を向いている。
「す、すみません……」
すかさずまどかが謝り、同時にいたたまれなくなった沙紀は、すごすごと後ずさりして彼女の身体の後ろにすっぽり隠れてしまった。
制服の黒いズボンに白のカッターシャツを無造作に着て、ブラウンがかった揺れる前髪の奥には、意志の強さを物語る鷹のような目をギラッと光らせている人。
まさかこの人が昨日の流れるような甘美なメロディーを奏でていたピアニストと同一人物とはとても思えないほど、張り詰めた空気を纏って指揮棒を操っている。
沙紀はなんだか場違いなところに来てしまったような居心地の悪さを感じながら、早くここから逃げ出したいとそのことばかり考えていた。




