34 愛しいヒトと
いったい、何の相談があるというのだろう。
沙紀の心臓は急激に鼓動を速め、康太の真剣そのものの真っ直ぐな視線に、心を射抜かれる。
こ、これはもしかして……。
そのまま康太の顔が沙紀の目の前に近付いてきて、目を閉じる運命なのかもしれない。
でも、ここは人通りも多いし、ダメだよ。そんなことできない……。
そして康太の右頬が沙紀の右耳をかすり、彼女の肩に康太が倒れこんで抱きつくような形になって。
「お、俺、マジで腹が減りすぎて、フラフラなんですけど……。お嬢さん、ご一緒にランチでも……いかがです? 」
沙紀は、本当に地面にまで倒れそうになる康太をやっとの思いで支えると、やれやれとでも言うように、ため息をひとつついた。
それまでの康太の思わせぶりな行動に翻弄された自分が馬鹿みたいで、腹立たしさを通り越して、滑稽にすら思えてくる。
そんなことあるわけないのに、無駄にときめいた自分の心臓が疎ましい。
「もう! こうちゃんったら……。みんなが見てるんだから、しっかりしてよね! 」
「ああ、悪かった。部活の勧誘があんなにすごいとは思わなかったし、もうくたくただよ」
「そりゃあそうだけど。あたしだって同じなんだから」
「そっか、そうだよな。沙紀は代表スピーチもあったもんな。やっと緊張から解放されて、腹も減ってきたってことか」
「そのとおり。じゃあ、どこかお店に入ろうか。で、何食べる? 」
「俺は、食えれば何でもいいよ」
「あたしだって。でも、知り合いがいない方がいいから、翠台に着く前にここらへんでお店決めようよ」
「賛成! 」
「ねえねえ、あたしさあ、おじいちゃんに入学祝もらったから、今ちょっとだけお金持ちなんだ。だから今日のお昼ご飯、おごったげるよ」
そう言って、沙紀は誇らしげに片手で胸を叩いた。
「それはダメだ。俺がおごる。春休みだってずっと割り勘だったろ? だから今日は俺がおごるっ! 」
急に元気を盛り返した康太が、つないでいた手を振りほどいてまで意見を主張し始める。
沙紀はこういう時の康太は、頑固で融通が利かなくなるのを知っていた。
春休みのデートも、俺がおごるという康太をなんとか説き伏せて割り勘にしてもらった経緯があるだけに、今回は絶対に譲らないだろう。
「……わかった。じゃあ、今日はご馳走になる。こうちゃんありがと! 」
何の気なしに康太に笑顔を向けた沙紀だったが。
康太は目じりをこれでもかというほどにまで下げて、口元までほころばせている。
「ちょっと、こうちゃん。どうしたの? 」
「あ、いや。……ごめん」
「お腹すきすぎて、意識までもうろうとしちゃったの? 」
「そういうわけでは、ないけど。その……」
「なんか、今日のこうちゃん、へんだよ」
「そうかもな。俺、変かもしれない。なあ、沙紀」
歩みを止めた康太が神妙な面持ちで語りかける。
「何? 」
「俺な、沙紀のその笑顔がたまらないんだ」
「笑顔? 何、それ」
沙紀は康太の真意を測りかねていた。
こんな空腹時にいったい何を言い出すのだろうと。
「沙紀の笑った顔を見てると、それだけで幸せな気分になる。その笑顔に勇気付けられるし、明るくなれる。もし、ここが外でなければ。もし、たった今自転車で通り過ぎた知らないおじいさんがいなければ。もし、この交差点の赤信号で、目の前の車が止まっていなければ。もし、こんなに腹が減っていなければ……」
「ええ? 何? もし、もし、って。もしそうじゃなかったら、どうだって言うの? 」
沙紀はますます彼の言っていることの意味がわからなくなっていた。
さっきから本当にへんてこりんなことばかり言っている。
「沙紀を……」
「あたしを? 」
「うん。沙紀を抱きしめていたと思う」
「へえ、そうなんだ。って、ええ? えええええ? 」
康太のとんでもない言葉に今度は沙紀が倒れそうになった。
「おい、しっかりしろよ」
よろめいた沙紀を康太が優しく支えてくれる。
「膝の故障で苦しんでいた沙紀のことを思うと、俺まで悲しくなってしまう。沙紀の笑顔を奪う物は何だって許せないよ。ドイツにだって、行きたくない。おまえの笑顔を見るためなら。俺、何だって出来る気がするんだ」
「ありがと、こうちゃん」
沙紀は、康太の気持ちが素直に嬉しかった。
聞くに堪えないくらい恥ずかしかったけど、彼の口から聞けたすべての言葉は、沙紀にとって宝物以外の何物でもない。
「あ、俺……。空腹すぎて、何かべらべらしゃべっちまった気がする。ひいた? ひくよな。でも、本心だから。沙紀のこと、好きになりすぎた」
あああああ。
もう、それ以上は。
沙紀の身が持たない。
「あそこのファミレスでもいいか? 」
突然、現実モードにチェンジした康太が、右前方の赤い屋根の建物を改めて指差す。
「え、ああ。うん、いいよ。じゃあ、ランチセットにしようかな。こうちゃんは? 」
「俺も同じ。ただしライス大盛りで! 本日はスペシャルデーってことで、フリードリンクもつけようかな」
「それ、いいね。そうそう、こうちゃん。あたしもこうちゃんのこと、前よりもずっとずっと、好きになってる。大好きだよ」
またもや立ち止まってぽかんと口を開けている康太の手を引き、お目当てのファミリーレストランに足を踏み入れた。




