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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第三章 メンデルスゾーン 無言歌集より 春の歌
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33 マネージャー

沙紀視点になります。

「相崎! 相崎じゃない? こっち、こっちよ! 」


 誰かに名前を呼ばれて立ち止まった沙紀は、ぐるりとあたりを見回した。

 すると陸上部のプラカードを持った見覚えのある人物が視界に飛び込む。

 それは、中学校の先輩の持田羽澄だった。


「あ、羽澄先輩! お久しぶりです」

「やっぱり相崎じゃん! 入学おめでとう。もち陸上部だよね? 」

「は、はい。まあ……」


 沙紀はあいまいに返事をする自分に驚いていた。

 誰が何と言おうと陸上部に入るのではなかったのかと自問自答する。

 そのために北高を選んだはずなのに。


「もっと自信もって! こっちは大歓迎だよ。相崎なら短距離で充分インターハイ狙えるからね。是非ともがんばって! さあさあこの入部届にサインして……」


 羽澄はさっぱりした性格で後輩の面倒見も良く、沙紀もこの先輩が大好きでかつては目標にしていた人物だったのだが……。

 沙紀は春休みに親に相談して専門医に膝を診てもらった結果、最低でも半年は激しい運動は避けるようにと言われたのだ。

 今後も腫れや痛みが取れなければ、手術も視野に入れておくように……と釘を刺されてもいる。

 仮に入部したとしても当分の間、皆と同じ練習メニューはこなせない。

 一生陸上はできないと言われたわけではないので、そこまで悲観することもないと思うのだが、沙紀は迷った結果、羽澄先輩に本当のことを告げることにした。


「先輩……。実はあたし、今、足を傷めてるんです。半年は激しい運動は出来ないと医者に言われてて……」


 こんな我がままを聞いてもらえるのだろうか。 

 まだ一度も練習に参加したこともない高校の部活に、いきなり調子が悪いなどと言って、入部が認められるのだろうかと不安になる。

 でも、きっと大丈夫。過去の記録を評価して回復を待ってくれると自分に言い聞かせ、羽澄先輩の言葉を待った。

 そして沙紀に下された返答は……。


「そうなんだ……。陸上選手に故障はつき物だからね。でも半年は致命傷だよ。ここの部は相崎も知ってのとおり、皆中学時代から記録保持してる者ばかりが集まってる。だから挽回するのはかなり難しいよ。……そうだ! マネージャーはどうかな? 陸上のことわかってくれてる相崎にやってもらえたら百人力だよ! どう? 」

「マ、マネージャー? ですか? 」


 高校の部活ではマネージャーの存在が不可欠になるのは、沙紀も知っていた。

 一人一人の部員に目を配り、練習メニューを配分し、監督との懸け橋も務める。

 合宿の手配に、器具の管理、データーの記録、それに、それに……。

 挙げればきりがない。それくらい重要な任務を負っているのがマネージャーだ。

 でもまさか自分がなるなんてことは想像だにしていなかったのだ。

 みんながトレーニングして練習を積み重ね、どんどん記録を伸ばしていく姿を目にしながら自分は走ることすらできない。

 そんなことが沙紀に耐えられるのだろうか。


「少し考えさせて下さい……」とだけ言って羽澄に頭を下げた沙紀は、その場を後にした。

 あまりにも覇気を失い、うな垂れるようにとぼとぼ歩いていく沙紀に、これ以上声をかける勇気のある勧誘員はもう誰もいなかった。

 沙紀は中庭のベンチに腰掛けて、さっき羽澄に言われたマネージャーの件をもう一度じっくり考えていた。

 マネージャーであれば、たとえ自分が競技に参加できなくても、ずっと陸上とかかわっていけるのだ。

 そして、足の痛みが消えて医者に太鼓判を押されたあかつきには、復帰も可能だ。

 しかし……。本当にそんな日が来るのだろうか。

 どんどん他の部員に追い越され、沙紀が活躍できる場は残されていないという現実が待っている。

 そこから死に物狂いで這い上がっていかなければならない。

 そして、また膝の痛みが再発して……。

 同じような災難に見舞われ、陸上から遠ざかった同級生を知っている。

 沙紀の不安は止むことはなかった。

 じゃあ、マネージャーとして、新しい一歩を踏み出せばいいじゃないか。

 けれども、あくまでも縁の下の力持ちであって、選手ではない。

 トラックを走る自分はそこには存在しないのだ。

 やはり自分にはとても出来ないと思った。走れない自分を認めることなんて出来ない。

 ならば、この足をきちんと治療して半年後に遅れて入部しよう。

 そうだ。そうしよう。その時みんなの倍練習して、追いつくんだ。きっと出来る……。

 沙紀はやっとのこと自分の取るべき道を見出していた。

 すでに新入生の人影もまばらになったグラウンドを横切り、康太との待ち合わせ場所のポプラの木に向った。


 学校から(みどり)台に続く川沿いの道には、古くから桜の木が植えられている。

 多くの市民が散歩やサイクリングをして、この道を行き交う。

 桜の幹はどっしりと太く、枝も広がり、夜にはライトアップされた夜桜が幻想的に浮かび上がる花見の名所にもなっているのだ。

 今年の桜はいつにも増してきれいに咲きそろっている。

 三月になって戻り寒波があったせいか開花が遅れ、今まさに満開を迎えていた。

 時折吹く東風に花びらが舞い、沙紀の鼻先をひらりと掠めていく。

 校門にはすでに母親達の姿はなかった。

 沙紀は約束どおり康太の元に駆け寄り、手を繋いで桜色に染まった川沿いの道をゆっくりと歩いていた。


「……そうか。沙紀はマネージャーはやりたくないんだな? 」


 陸上部でのやり取りを正直に康太に伝えた沙紀は、力なくとぼとぼと歩き続ける。


「……で、沙紀は、どうしたいの? 」


 康太が思いのほか強く手を握り締めて、再び訊いてくる。


「自分でもどうしたらいいかわからなくて……。でも、羽澄先輩にもちゃんと返事をしないといけないし……。こうちゃんの言う通り、あたし、マネージャーはやりたくないんだと思う。純粋な気持ちで、皆のサポートに徹するなんて、今はまだ出来ないよ。だから治療に専念して具合が良くなってから改めて入部する。それに、他の部活も見てみないとね。他にやりたいことが見つかるかもしれないし……」

「そうだな。とにかく治療するのが一番」

「うん。それとね、膝への負荷を減らして、膝回りの筋力をつけるためにも、明日から自転車通学しようと思ってるんだ」

「自転車通学? なら俺もそうするよ。部活の朝練がない時は、一緒に行けるしな」

「ありがとう。そう言ってもらえると気持ちが落ち着く。なんかこうちゃんに話を聞いてもらったらすっとしちゃった。今まで悩んでたのは何だったんだろうってね。もっと早く足のこと言っておけばよかったね」


 康太に話すだけでこんなに気持ちが軽くなるのなら、もうこれからは一人で悩みを抱え込むのはやめようと沙紀は思った。


「そうだよ。もっと早く教えて欲しかったな。まあ、俺も人のこと言えないけどね。ドイツ行きのこと、なかなか言えなかったもんな。でもこれからは何でも話すこと! お互い隠し事はなしにしような」


 ドイツ、という言葉に見事に心が反応した沙紀だったが、先のことをあれこれ考えても仕方ない。

 今、この時を、康太と築いていくほうが大切なのだから。


「うん。これからは何でも一番にこうちゃんに相談する。こうちゃんもあたしに言ってね」

「もちろんさ。……では、お言葉に甘えて。ものは相談なんだけど……」


 康太が急に真面目な顔つきになって沙紀を見た。


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