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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第三章 メンデルスゾーン 無言歌集より 春の歌
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31 春の歌

康太視点になります。

 ちょうど入学式に合わせたかのように桜が満開になり、川沿いの道が薄桃色のベールに包まれる。

 しばらく行くとバスが停車し、北高前に到着したアナウンスが車内に響く。

 新しい制服を着て張り切っている新米高校生たちが我先にとバスを降り、次々と校門をくぐっていく。

 康太もたった今学校に着いたばかりだ。

 もちろん沙紀も一緒だが、たまたまバス停で出会った二人というシナリオは今後も絶対必要条件だ。

 沙紀と付き合い始めて間のない康太にとっては何もかもが新鮮で、たとえ彼女とは肩を並べてバスに乗れなくても同じ空間にいるというだけで満足だった。

 時々視線を合わせて、目と目で会話する。

 いよいよ学校が始まるな。うん、そうだね。忘れ物はない? 大丈夫だよ。などと。

 康太は山本伊太郎と。沙紀は井原まどかと。それぞれ別の友人と同乗しながらも、心はお互いへと寄り添っていた。


 母親達も少し遅れて、学校にやって来るらしい。入学式に出席するためだ。

 実はこれには前日にひと悶着あった。

 康太は入学式に来るという夏子と、言い争いを起こしていた。

 高校生にもなって、親が学校について来るのは恥ずかしいというのが表向きの理由だったのだが。

 結局、保護者会もあるし、どうしても沙紀の晴れ姿が見たいという夏子に押し切られて、康太の計画は無残にも打ち砕かれたのだ。

 合格発表の日に告白してから春休みにかけて、少しずつではあるが、芽吹いたばかりの愛を二人は大切に育んでいた。

 映画を見に行ったり、犬の散歩という大義名分を掲げて遠くの河原で落ち合ったり……と、ささやかなデートを楽しんでいたのだが、それぞれの親たちに二人が付き合っているのを知られることだけはどうしても避けたかった。

 いろいろ詮索されたり冷やかされたりと、康太にとって煩わしい事態が予想されるだけに、今までどおりそ知らぬふりをして、慎重に慎重を重ねて行動していくのは当然のなりゆきだった。


 新入生代表としてスピーチをすることになった沙紀はやや緊張した面持ちで、体育館の前方の席に着いていた。

 北高では、一般入試の成績優秀者がその代表の座を獲得するという伝統が、今尚何十年も続く慣例となっている。

 その栄誉を手にした沙紀に、本当に自分が代表でいいのだろうかという不安をずっと相談されていたのだ。

 隣のクラスになった康太が、離れた場所からそんな沙紀の心細そうな後姿を心配そうに見ていたが、自分の彼女が代表に選ばれたことに少なからず誇らしさを感じてもいた。

 二学期の終わりには沙紀の成績が急上昇していたのは知っていたが、まさか一番で合格してしまうほどにまで到達していたとは、さすがに康太も驚きを隠せない。

 よくぞトップ校である東高を受けることなくこの北高に進学してくれたものだと、康太はこっそり胸を撫で下ろしていた。

 もし沙紀が東高に行っていたら、今の康太はいない。彼女と付き合っていた可能性は限りなく低いだろうと結論付けた。


 体育館内のざわつきをよそに、舞台横のグランドピアノが艶のある音色を響かせ始めた。

 んん? 一瞬にして康太はピアノから鳴り響く一音一音に心をつかまれる。

 いったい誰が弾いているのだろうか。教師かもしれないし、ピアニストを招いた可能性も捨てきれない。

 それまで談笑していた生徒や保護者の視線が次第にピアノに注がれ始めた。

 それは、メンデルスゾーンの無言歌集より、春の歌という曲だった。

 優美なメロディーラインが鮮やかに浮かび上がり、ふんだんな装飾音符も目立たずそれでいて消えすぎず、絶妙なバランスで音楽を形作り、会場内を魅了するのだ。

 康太は音楽に惹きこまれながらも厳しい表情になっていった。

 いったいなんなんだ、あの演奏は。と。

 それはまるで康太自身が演奏しているような錯覚に陥るほど、自分に似た音の流れが紡ぎ出されていた。

 決して難しい曲目ではない。小学生でも高学年になれば発表会で弾くことは多く、様々な世代に好まれている曲だ。

 しかし、ここまでの技量を保持しながらこの曲を披露してくれた人物に、康太はこれまで出会ったことがなかった。

 大人びた風貌の男性が弾いているのが見えた。制服を着ているということはここの在校生のようだ。

 それにしてもあの美しい音色。タッチの正確さ。心地よい曲想。

 演奏者がただ者ではないことが窺える。

 グランドピアノと言ってもコンサート用ではなく、どこの学校にでもあるような一般的な普及タイプのものだ。

 なのに、そのピアノの特性をすべて把握して、コントロールし尽したとも言えるその音色は、康太の心を鷲づかみにして離さない。 

 名も知らぬ先輩の演奏に魅せられた康太は、そのあまりの衝撃に沙紀のことすらもすっかり脳裏から消え去ってしまっていた。

 司会進行役の教頭が新入生代表の沙紀の名を呼名する直前まで、康太の脳内では見知らぬ先輩のピアノ演奏が何度も繰り返され、音で満ち溢れていた。


 入学式が終わった後、康太の最も恐れている母親達のとんでもないもくろみが控えている。

 それは沙紀と沙紀の母親を交えての家族合同昼食会だ。

 それだけはどうしても避けたかった康太は、何としても今日の夏子の来校を阻止したかったのだ。

 高校生にもなって近所の親子同士でそろって食事など、考えただけでもぞっとする光景だ。

 昨夜康太は夏子に必死で訴えたのだ。それだけは辞めてくれと。


「どうして? 別にいいじゃない。最近ではなかなか沙紀ちゃんといっしょに食事なんてできないでしょ? 何をそんなに照れてるの? 変な子ね……」

「いや、照れてなんかいないよ。そんなところ、知り合いの誰かに見られたら、何を言われるか」

「あら、大丈夫よ。私たち親もいるんだし、変な噂を立てられることもないわ。もし何か言われたら……。まあ、それもいいんじゃない? かわいい沙紀ちゃんと一緒で、みんなうらやましいだけよ。大丈夫、大丈夫。そんなの気にしてたら、これからの人生、進んでいけないわよ」


 などと言って、全く取り合ってくれなかった。


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