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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第三章 メンデルスゾーン 無言歌集より 春の歌
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24 遠くの国へ

沙紀視点になります。

 三月に入り受験勉強も最後の追い込みとなった夜、沙紀は過去の入試問題を解く前に何か温かい飲み物を用意しようと一階に降りてきた。

 まだ両親も起きているようだ。リビングから明かりと話し声が漏れてくる。 

 吉野が……という徹の声にふと足を止めた沙紀は、次の瞬間には、リビングのドアの前でそれ以上動けなくなってしまった。

 徹の声に(かぶさ)るようにして、春江も、寂しくなるわねえとつぶやいている。

 沙紀は一通り話を聞き終えると、寒いからなのか今の話の内容のせいなのか、どちらの原因でそうなったのかわからないまま身体の震えが止まらなくなった。

 こんな状態で二人の前に顔を出すことはできない。

 あのような話をしていた二人に向かって、いったいどんな顔をして問い詰めればいいのだろう。

 今の話は何? こうちゃんやしょうちゃんがどこか遠くの国に行ってしまうって、どういうこと?

 どうか今聞いた話が聞き間違いでありますように、吉野家の話ではありませんように……と祈りながら、両手で自分自身を抱き締めるようにして、再び二階にもどって行った。


 窓越しに映っているのは康太の部屋のぼんやりとした明かり。

 まだ勉強しているのだろうか。

 いや、もう学年末試験も終わったと言っていたから、あのミステリーの本を読んでいるのかもしれない。

 それとも彼が好きなあのグループのアルバムでも聴いているのかも。

 今知ってしまった話を彼に訊ねるにはもう夜も遅すぎる。

 本当にドイツに行ってしまうの? なんて聞けるわけがない。

 社会の世界地図を広げてみる。

 ヨーロッパの地図の中にドイツがあった。

 日本からはとても遠い。ロシア、中国を越えて、そのまたもっと西側になる。

 反対側を見れば、太平洋を越えてアメリカ大陸を横切り、大西洋の向こう側がヨーロッパだ。

 そんなところに行ってしまったら、もう会えなくなってしまう。

 沙紀は昨日、久しぶりに康太から届けられた交換ノートを胸に抱きながら、次々と零れ落ちる涙を拭うこともせずに、ただただ泣き続けた。

 どうして教えてくれなかったのか。

 それとも、彼自身も親から知らされていないのだろうか。

 けれど、それはないと直感的にわかった。

 もう絶対に沙紀のそばから離れない、と何度も繰り返し言ってくれたあの言葉が沙紀の脳裏に焼き付いている。

 彼はすべて知っていて、あのようなことを言っていたのだ。そうに違ない。

 

 結局、何も康太に問いただせないまま、沙紀は受験の前日を迎えていた。

 出来ることはすべてやった……。

 康太の家族がドイツに行ってしまうかもしれないと知ったあの夜以降、何も手につかない状況が続いたが、夏から真剣に勉強に取り組んできた成果だろうか。

 塾での入試直前テストでは、まずまずの結果が出せたのだった。

 いつまでも泣いていても仕方ない。

 めそめそしていても沙紀にはもうどうすることも出来ないのだと悟るや否や、明日の入試は全てを忘れ去って問題に集中しようと思いも新たにし、早めにベッドに入りかけたその時だった。

 窓からいつもの合図が聞こえる。

 彼だ。

 まだ十時過ぎではあるが、ノートは沙紀が持ったままなのに何の用だろうとベッドから起き上がりながら、あれこれ思考を巡らせる。

 ややとまどいを感じながらも、椅子に掛けてあるベンチコートを手に取り羽織った。


「やあ。もう寝るところだったのか? 」


 窓を開けた沙紀の目の前には、同じように色違いのベンチコートを着た康太が微笑みながら話しかけてくる。


「こうちゃん……」


 沙紀は、どういうわけそれ以上、何もしゃべれなくなり、(のど)の奥の方からこみ上げてくる得体の知れないものを押さえ込むことしか出来ない。

 大きく息を吸い、ゆっくりと吐き、胸に手を当てると少し楽になった。


「こうちゃん、何? 」

「いや、別に何もないんだけど。いよいよ明日だな」

「うん。そうだね」

「体調は? 」

「大丈夫」

「忘れ物は? 」

「ない」

「受験票は? 」

「持った」

「筆記用具は? 」

「ちゃんとある」

「完璧だな」

「うん」


 いつもの康太の声だ。

 どこにもわだかまりは感じられない。

 やっぱり彼がドイツに行くなんてことはありえない。聞き間違いだ。

 おじさんが仕事で海外出張に行く話が飛躍しただけだったのかもしれない。

 うん、そうに違いない。


「あの、これ……」


 そう言って康太が、虫取り網に手紙のようなものを入れて沙紀に差し出した。


「え? 何? 見てもいい? 」


 沙紀がその小さな封筒の中に入っている手紙のような物を出そうとしたのだが。


「あ、ストップ! 今は見ないで。それ、明日の受験のお守りだから。合格発表の後、開けて欲しい。いいな。間違っても今夜開けるんじゃないぞ。明日も明後日もダメだ。効力が無くなってしまうから」


 康太のあまりに激しい口調に、沙紀は驚きながらも元通りにしたそのお守りを、そっと両手の間に挟みこんだ。


「沙紀、きっと合格するさ。俺のそのお守りは効き目絶大だからな。絶対に合格発表のあとに開けること。それじゃあ、おやすみ。明日、がんばれよ! 」

「うん。って、こうちゃん。待って! 」


 窓を閉めようとする康太を呼び止めた。



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