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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第二章 ベートーベン ピアノソナタ 悲愴
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17 ポチの受難

 沙紀が息を切らして家に帰り着くと、玄関に見慣れないスニーカーがきちんと揃えて並んでいた。

 赤いラインがアクセントになっているそれは、今人気のスポーツメーカーの物だ。


「ママ、ただいま! 誰かお客さん? 」

「あ、やっと帰って来たのね。ひろちゃんが来てるわよ。二階で待ってもらってるわ」


 ひろちゃん? 沙紀はなんで美ひろが急に来ているのだろうと不思議そうに首を傾げながら二階に上がった。


「沙紀ちゃん! 急におじゃましちゃってごめんなさい。おばちゃんが、沙紀ちゃんすぐ帰るからここで待っててって言って下さったから……」

「ひろちゃん、いったいどうしたの? 来るのわかってたらもっと早く帰って来たのに。待たせちゃってごめんね。いつもより遠くまでポチの散歩に行ってたんだ……」


 そんなに遠くではないけれど。隣人との無駄な時間は想定外に長びいてしまった。


「そうなんだ。また走ってたの? 顔が真っ赤だよ? 」

「そんなに赤い? 走ってたのもあるけど。それだけじゃないんだ。聞いてよ、ひろちゃん! 今あたし、めっちゃむかついててさ……」

「どうしたの? 沙紀ちゃん。まさかまた誰かと取っ組み合いのケンカだなんて言わないよね? 」


 沙紀は美ひろの心配そうな顔を見て、しまったと思った。

 さっき河原であったことは美ひろには知られたくなかった。

 康太の告白を心待ちにしていたけど、期待外れだったなんて言えるわけがない。


「あっ、違う違う。違うの。取っ組み合いだなんて、いくらなんでもそんなこと、もうしないってば。ポチがその……。言うこと聞かないもんだから……」


 河原では始終おりこうにコロと一緒に主人の会話を見守っていたポチが、いわれのない罪を着せられた瞬間、庭で、ワン! と小さく吠えた。


「そうだったんだ……。実はね、今夜は沙紀ちゃんに数学教えてもらおうと思って聞きに来たの。沙紀ちゃん最近、数学調子いいでしょ? 」


 沙紀の塾での数学の点数は、近頃めきめきと急上昇しているのだ。

 東高も夢じゃないと、昨日塾の講師に言われたばかりだった。

 美ひろが引っさげてきた問題はかなりの難問だった。

 だが、確か同じような類題を夏休みに康太に教えてもらったはずだと思い出した沙紀は、例のキャラクターノートを引っ張り出し、該当ページを探した。


「これこれ! あったあった。このやり方で解けば大丈夫だよ! 」


 沙紀がすらすらと問題を解いている時、美ひろはそのノートの文字に見入っていた。


「ねえ沙紀ちゃん。これって、沙紀ちゃんの字じゃないよね? 」


 力強い整った字でびっしり書き込まれたノートは明らかに誰が見ても沙紀の字ではない。

 紗紀は、一瞬事実をそのまま言うべきかどうか迷ったが、ここまで見られてごまかすわけにもいかないと考えを改める。

 幸い、問題を解く経過しか書いていないページだったので、正直に教えることにした。


「う、うん。……隣の吉野の字だよ。夏休みに教えてもらったんだ」


 美ひろの顔色が少し変わったような気がしたのだが、沙紀は別段気に留めなかった。


「隣の吉野君って……。もしかして沙紀ちゃん、今でも吉野君とつながってるの? というか、その、彼と付き合ってるの? 小学校の頃のあのうわさは本当だったの? 」


 美ひろの容赦ない問いかけに沙紀の心臓が大きくトクンと一つ鳴り、返す言葉も見つからないままその場にピタッと固まってしまった。


「あ、沙紀ちゃん、変なこと聞いてごめんね。わたし……わたし……。本当にごめんね」


 驚きのあまり声も出ない沙紀に、美ひろが申し訳なさそうに謝る。

 小学校の時に康太との関係をからかわれ、あれほど元気で明るかった沙紀が人が変わったように無口になって落ち込んでいた時、一番親身になって沙紀を支えてくれたのはこの美ひろだった。

 そんな優しい美ひろとさえ距離を置き、遊ばなくなったのだが、ようやく最近また関係が復活したばかりだというのに。今また美ひろを困らせてしまっている。


「ひ、ひろちゃん。そんなに謝らないで。ひろちゃんの言う通りだよ。吉野の書いたノートを見たら誰だってひろちゃんみたいに疑問に思うよね」


 ようやく落ち着きを取り戻した沙紀が美ひろの問いかけに答える。


「だからいつも言ってるけど。隣はただの同級生の一人だって。中学になって学校も違うし、昔みたいに遊ぶこともほとんどなくなってて。吉野と付き合ってるなんてありえないし。それこそ松桜学院には、知的な美女がいっぱいいるみたいだし、あたしみたいな節操のない女の子はお呼びじゃないに決まってる。その証拠にさっきだって……」

「え? さっき、何かあったの? 」

「あ、いや、な、なんでもない。気にしないで」


 期待した挙句、告白はなかった。

 けれど、ずっと一緒にいる、などと言ってくれたのは告白に負けないくらい嬉しいことではあったのだが。

 それは美ひろには恥ずかしくて言えそうもない。


「うん、わかった」


 美ひろはしぶしぶ納得してくれたようだ。


「ねえ、沙紀ちゃん、わたし、その……」


 美ひろが何か言いたげにうつむき、膝の上の手をもぞもぞと動かしている。


「なに? ひろちゃん、どうしたの? 言いたいことがあるのなら何でも言って」


 困ったことがあれば何でも打ち明けて欲しかった。

 六年生の時に受けた恩は一生忘れない。

 この先、美ひろに何かあった時は一番の支えになりたいと思っている。


「あのね、わたしね。実は、吉野君のことが……好きなの。六年生の時からずっと……」


 その時沙紀は自分がどんな顔をしていたかなんて、気付くはずもなく。

 これぞまさしく呆気(あっけ)に取られた顔とでもいうのだろうか。

「えっ……」と言った口の形のままぽかんとして、呼吸すら止まってしまったのかと思うほど、身動きひとつしないで。

 まるでそこだけ時が止まったかのように微動だにできなかった。


 どれくらいそうしていたのだろう。

 いやきっと数秒くらいしか経っていないのだろうけれど、沙紀には永遠にも思えるくらい長く時が止まった瞬間だった。

 忘れていた呼吸を取り戻すかのように、大きく何度か深呼吸をして、美ひろに言った。


「び、びっくりした。ひろちゃんって、吉野が好きだったんだ。なんで今まで教えてくれなかったの? 」


 そうだ。もっと早く教えてくれていたら、こんなに驚くこともなかったのにと、沙紀は意味不明な結論を導き出す。

 たとえ早く教えられていたとしても、やはり同じように天地がひっくり返るほど驚いたにちがいないと思うのだが……。


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