番外編 年下のひと 1
まどか視点になります。
まどかは寝静まった両親を起こさないように二階の自分の部屋に上がり、まだパーティードレス姿のまま、スマホの画面に見入っていた。
勤務先も市内のため、残念ながらあこがれの一人暮らしはまだ実現していない。
ついさっき、偶然出会った彼と社交辞令的に取り交わしたラインの文字にしばし首を傾げる。
仕事が休みの日、一緒に横浜に行きませんか。
都合のよい日を知らせて下さい。
スタンプも何もない、文字だけの文章が、灯りもつけていない暗闇の空間にくっきりと浮かび上がる。
どうして横浜なのだろう。
それに、いくら昔からの知人であるにしても、彼はまどかの親友の夫の弟である、とうだけの間柄だ。
過去に顔を合わせても二言、三言言葉を交わすくらいで、遊んだこともない。
もちろん親友の夫も同級生で、気心の知れた友人の一人ではあるにしても……だ。
それだけの関係でしかないこの吉野翔太という人物がいったい何を思ってこんな誘いをかけてくるのか、まどかには全く理解できなかった。
さっきは家まで送っていただき、どうもありがとうございました……
などとありきたりのお礼メッセージを送信しかけて、ハタと手を止める。
横浜に行くのか行かないのか。そのことに全く触れずにやり取りを終了させることに、少しうしろめたさを感じる。
兄の妻の親友を名乗る女性が、常識もわきまえない子どもじみた人だと思われるのも、沙紀に申し訳ないではないか。
あんなに幸せそうだった沙紀の笑顔を守るためにも、ここは大人な対応が望まれる場面だ。
けれど。
どんな誘いであれ、断りのメッセージを送信することほど気乗りのしないものはない。
何か断る理由があるのならまだしも、あなたと横浜に行く意味がわかりません、などとあからさまに告げる勇気が今のまどかにあるはずもなく。
また機会がありましたら、その時は是非、とでも言っておくべきなのか。
いや、それとも、当分休みが取れそうにないので、今回は見送ります、と定番の断り文句でも並べておけば、それなりにこっちの事情も察してくれるのではないだろうか、とも思うのだが。
あ、でも、保育士として勤務していることは相手に知られているので、基本、日曜日と祝日は休みなのは周知の事実だし、土曜日もシフト制で、月に二度の勤務状況なので、次回の土曜日は休みになる。
そして土曜日に出勤した分は平日に休みが取れる仕組みだ。
ウソはいけない。
ここは正々堂々と、理由もなく男性であるあなたと旅行には行けませんと断りをいれるべきなのだろう。
けれど、なかなか手が動かない。
ああ。こんなことをしていても、何もらちが明かないではないか。
本当なら長年付き合った彼氏との別れの日でもある今夜は、はらはらと流れ落ちる涙で枕を濡らす予定であるはずなのに、この若くてイケメンな青年とのやり取りにあれこれ気を揉んでいる自分が、やや滑稽にも思える。
「よしっ! 」
そう言って掛け声を発すると同時にスマホをベッドの上に投げ置き、ドレスを派手に脱ぎ棄てると、パジャマを抱えてバスルームに向かった。
普段は日焼け止めクリームオンリーで、ほとんどノーメイク状態だ。
今日ばかりはそうもいかない。念入りに施した濃い目のメイクをしっかりと落とし、ぬるめの湯船に身体を沈めた。
そして、別れた彼氏のことを思い浮かべてみるのだが。
不思議なことに、涙がこぼれることはなかった。
帰宅途中はあれほど悲しくて、みじめで、沙紀の幸せに比べると、その真反対に位置する自分の不幸さに滅入ったものだったが、今はそれどころではなかった。
翔太への失礼のない返信メッセージを考えなければと、そればかりが脳内を駆け巡る。
にしても、コンビニで出会った時の翔太の驚いた顔といったら……。
思い出しただけで、クスッと笑ってしまう。
どうして彼のその顔がおかしかったのか。
決して変な顔だとかそういうのではない。
彼は式場に集まっていた誰よりも整った顔立ちをしていたし、振る舞いも洗練されていた。
まどかは必死になってその原因を探っていた。
子どもの頃の記憶がよみがえったからなのか、はたまた、きょとんとした無防備な表情がただ単にユーモラスだっただけなのか。
いろいろ考えているうちに、ある一つの答えを導き出していた。
そうだ。あれだ。あの顔だ、と。
それは忘れもしない、今日の主役だった沙紀と吉野の二人の最後の秘密が暴かれたあの時の出来事だった。
今まであの二人には、いろいろと驚かされたものだ。
彼氏なんかいないよ、と言っていた沙紀を信じていたある時に、今日結婚した二人がべったりとくっついている所に出くわし、それはそれはびっくりしたものだったが。
おまけに彼女の左手の薬指には愛のあかしと思われるファッションリングがこれみよがしにきらめき、二人の既成事実に腰を抜かした記憶が昨日のことのようによみがえる。
実は彼らにもたらされた驚きはそれだけではなかったのだ。
今から、半年くらい前だっただろうか。
まだ、順平とはそれなりに幸せだったあの頃、保育園のクリスマス音楽会での演目を決めるにあたって、沙紀に相談しに行こうと、彼女の住むマンションにはるばる訪れた時の事だった。
本当は出勤予定だった土曜日のその日、急に勤務を変わって欲しいと同僚から連絡が入り、思いがけず朝からフリーになったことがあった。
順平は出張で東京に行っているし、そもそも出勤予定だったので、まどかには何も予定はなかった。
そうだ、沙紀のところに押し掛けようと思い立ち、以前から悩んでいた仕事の相談を引っ提げて、彼女に連絡を取ったのだ。
少し慌てているようだったけど、いいよ、と言ってもらえて、すぐにお気に入りの軽自動車を走らせて、彼女の住む街へと向かった。
渋滞もなく、以前訊ねた時よりも十五分も早く到着し、地元のケーキをぶら下げて意気揚々と彼女の部屋のインターホンを鳴らした。
「い、いらっしゃい。まどかちゃん」
いつもと同じ沙紀なのに。
どこかちょっと違うような感じがしたのだけど、まあ、会うのは梅雨のさなか以来久しぶりだったし、仕事が忙しくて疲れているのかなくらいにしか思っていなかった。
寝室にしている洋間と、六畳ほどのリビングがある彼女の部屋は、きれいに片付いていてとても居心地のいい空間だった。
いつもなら開け放たれている東向きの寝室も、荷物をいっぱい押し込んでるから今日は見せられないと言われ、ドアが閉められていた。
何となくだけれど、以前より少し荷物が増えているような気がしたのだが、気のせいだろうか。
カラーボックスには幼児教育の資料が並び、テレビボードの片隅には、幼稚園での行事で撮ったのだろうか。園児たちに囲まれた笑顔の沙紀がそこにいた。
それと。彼女の大切な彼氏である吉野のピアノコンクールの時の写真もちょこんと置かれていた。
そうかそうか。中学の終わりからかれこれもう十年以上も付き合っている二人は、今もなお、仲良くその関係が続いているようだ。
2に続きます。
明日、更新予定です。