エピローグ 1
「先生、夏子先生。こっちこっち! 」
沙紀は今にも飛び跳ねそうになるのをやっとのことで踏みとどまると、駅の改札を抜けてきた夏子に向かって両手を振った。
「沙紀ちゃん、まあ、沙紀ちゃん。本当に久しぶりね、会いたかったわ」
夏子は微笑みながら沙紀の手を取った。
「先生……ってごめんなさい。いつも間違えちゃう。お義母さん、ご無沙汰してます。でも来週からまた翠台の住民にもどれると思うと、なんだか嬉しくて」
「そりゃあそうよ。沙紀ちゃんの育った町だもの。それに、勤務先が翠台中央病院に決まったって聞いた時は、初め信じられなかったのよね」
「あたしだって、まさかこんなにうまい具合にいくなんて思ってなかったもの。中央病院で修行を積んで、将来は相崎医院を継げるようにがんばろうと思ってる」
「そうね。おじいさん、きっと天国で喜んでいらっしゃるわね」
「だといいけど……」
沙紀は神妙な面持ちで、夏子と並んでゆっくりと歩き始めた。
長一郎が亡くなってもうすぐ十年になる。
祖母の家に行くと、いまだに、祖父が元気だった頃の姿のままで、ひょっこりと診察室から姿を現しそうな気がするのだ。
おおお、沙紀か、よく来たね、と手招きしながら……。
もう言葉では言い尽くせないほどの努力と時間を費やして念願の医者になれた自分を見てもらえないのが残念でならない。
少し感傷的になった沙紀を元気付けるように、夏子が明るく話しかけてくる。
「ねえ、沙紀ちゃん。翠台の駅前に、ちょうどいいマンションが見つかってよかったわね」
「うん。ホント、奇跡だよね。中古物件だったけど、前に住んでた人がピアノ教室を開いてたから、防音設備もバッチリだし、隣近所の皆さんもある程度は音に理解を示してくれてるみたいで助かった。あさっての引越しが待ち遠しいな」
「そうね。雅人もはりきっちゃって。今日ももちろん来るけど、あさっては香屋子さんと圭人も連れて来て引っ越しの手伝いをするって言ってたわ。圭人ももう小学生。本当に月日が経つのは早いわね。そうそう、翔太も横浜から帰って来るって」
「あ、それ聞いた。昨日、まどかちゃんからライン来てたよ。久しぶりに会えるから、楽しみ」
「そうね、お正月以来かしら。でもね、みんな引っ越しの手伝いなんて言ってるけど、本当は」
「ふふふっ。そうよね。本当の目的は……」
沙紀は夏子と目を合わせて笑ってしまう。
みんながやって来る目的と言えば、それはただ一つ……。
弟の翔太と言えば、ドイツの大学を卒業した後は定職に着かず、日本でロックミュージシャンとしてそこそこの活躍をしていた。
メジャーデビューまでの道のりは遠く、次第にメンバーが離れて行き、結婚を機に父親が支店長を務めていた貿易会社に勤務して、今は横浜で年上の妻と二人で暮らしている。
ドイツ語や英語も堪能な翔太は、それが仕事にも大いに役立ち、ミュージシャンの頃の人脈も生きて、横浜支店の益々の発展に寄与しているのは、父親の慶太はもちろんのこと、親族全員にとってありがたい誤算だった。
翔太の年上の妻というのが。
なんと、あの沙紀の親友の井原まどかなのだ。
沙紀の結婚式でまどかと再会した翔太は、それを機会に彼女と付き合うようになり、紆余曲折を経て三年前にやっと籍を入れ仲睦まじく暮らしている。
まどかは、大学卒業後に保育士として働き、同級生の葉山ともいい関係を築いていたはずだったのだが、どこかで歯車がかみ合わなくなり、沙紀の結婚式の後、別れてしまったのだ。
その葉山もまどかと別れてほんの数カ月後に合唱部の後輩と結婚したことは、今でも語り草になっている。
「でもね、お義母さん。聞いて、聞いて。うちのママったら、なんで私たちと同居しないのって不服そうなんだ。そんな事言われても、あたしと康太って結婚してから新婚らしい生活が全くなかったでしょ? パパに同棲がバレて、そのあとすぐに結婚して」
「そうだったわね。あの時はほんとに驚いたわ。まさか沙紀ちゃんとうちの康太がって……。何となく、親の勘って言うのかな。彼女がいるんじゃないかなってことは薄々気付いてはいたんだけど、お相手が沙紀ちゃんだっただなんて、二人が私の目の前で経緯を話してくれても、そう簡単には信じられなかったんだから。聞けば、中学生の頃から付き合っていたって事だし。あなたたちのポーカーフェイスには脱帽だわ。そりゃあ、そうよね。沙紀ちゃんがいるんだもの。高校生の康太が、ドイツに行きたがらないはずよ」
「うふふ。そんなこともあったね。それで、あたしが先に仕事を辞めて受験勉強に専念。康太はあたしが大学に入った年に仕事を辞めてすぐに渡米。その後はドイツの音楽学校に編入して、ヨーロッパを転々と。夏季休暇と冬期休暇には会えたとしても、ずっと別居生活だったんだもの……」
「そうだったわね……。やっとあなたたちも夫婦らしい生活が送れるんだものね。でもいつでも帰ってきていいのよ。春江さんのところでも、私のところでも……。どっちも沙紀ちゃんの家なんだからね」
「ありがと。これからはいっぱい甘えさせてもらうね。おっといけない。早く行かなきゃ。遅れたら後であいつに何言われるかわからないもの」
沙紀は着慣れないシルクシフォンのワンピースの裾が膝にまとわりつくのを気にしながら、夏子と共に市民ホールに急ぎ足で向かった。
ワンピースとのバランスが決していいとは言えないローヒールのパンプスは、急いでいる今、思いのほか役に立っていることに少し気をよくする。
駅のコンコースの壁面には、ある意味、誰よりもよく知った顔のアーティストがポスターの中でこちらに向かって笑いかけている。
ちょっとこそばゆい感じがしてわざとその方向から顔を背けて通り過ぎるが、決して悪い気はしない。
若い女性のグループがポスターの前に立ち止まって、こんなイケメンのピアニストならクラシック音楽も聴いてみてもいいかも、などと言ってるのを聞こうものなら、それ、あたしの夫だから……と自慢したくなるのを押さえるのに苦労するのだ。
ヨーロッパの著名な国際ピアノコンクール優勝後、初の凱旋帰国記念演奏会と銘打って、チケットは発売したその日に完売という、クラシック演奏会史上稀な快挙を成し遂げた康太のコンサートに、沙紀と夏子は大急ぎで向かっているというわけだった。
長きにわたりお読みいただきありがとうございました。
次回、最終話になります。