179 ぽーかーふぇいす 2
相崎家のリビングのソファには、いつになく畏まった沙紀の両親と、その向かいに並んで座る沙紀とよそ行きの顔をした康太がいた。
徹のわざとらしい咳払いが、コホンと部屋に響く。
「今日は、突然すみません。あの、今さらなんですが、ご挨拶に伺いました」
康太の緊張が沙紀にも伝わってくる。
こういう緊迫した時に限って、何故か昔の面白い出来事を思い出してしまう。
このソファで飛び跳ねて康太と鬼ごっこをして遊んでいた、大昔の出来事を……。
鬼さん、こちら、と手を叩きながら康太をおびき寄せてソファに飛び乗り、座面のスプリングを最大限に活かしてジャンプして、隣のソファに飛び移るのだ。
春江にやめなさいと注意されて、すぐさまごめんなさいと謝って大人しくなるのは康太で、沙紀は泣きそうになって肩をすくめている康太をよそに、春江の最後の爆弾が落ちる寸前まで飛び跳ねるのをやめないのだ。
その頃につけた小さな傷が、今もソファの肘あてのところに残っている。
手に持っていた変身グッズをぶつけた跡だ。
沙紀のそんななつかしい気持ちなどおかまいなしに、尚も康太は言葉を続ける。
「今までずっと、沙紀さんと付き合っていたことを隠していてすみませんでした。自分にも自信がなかったし、あまりにもおじさんやおばさんと近しい存在だったので、恥ずかしくてなかなか言えませんでした……。今後も結婚を前提として沙紀さんと付き合っていきたいので、どうか、交際を認めて頂きたいと……」
康太が最後まで言い終わらないうちに、徹の肩が震え出した。そして……。
「くっくっく……。あっはっはっはっは! す、すまない。ごめんね、康太君。いや、君が一生懸命、その、折り目正しい挨拶をしてくれているのに、悪いんだが……。そんなに堅苦しいのは辞めようよ」
「あ、はい……」
康太はとまどいながら徹の顔を見てうなずいた。
「ついこの間まで、ここで沙紀と一緒に飛び跳ねていた君が、こんな立派な青年になって、どこかで借りてきたようなよそよそしい言葉を並べて……。私はね、康太君も知っているとおり、君の叔父さんとは旧知の仲だ。その親友の甥っことうちの娘がこういうことになって、本当に嬉しいと思ってるんだよ。だからもうそんな挨拶はいいから。こんなおてんば娘でよければいつでも持っていってくれ。それに、吉野さんちとは隣同士だ。嫁に出すといっても、目と鼻の先だろ? 何も心配してないよ。もう君たちも二十七なんだ。とっとと結婚して、孫の顔でも見せてくれ。はははは。これはいい。なあ、ママ」
「ふふふ。お義父さんが亡くなってから、あなたが笑うの、初めて見たわ。よかったわね、娘がいて。そしてこんな素敵な伴侶がすぐ近くにいて。さあ、こうちゃん。そんな怖い顔しなくていいから。リラックス、リラックス。夏子さんにも声かけて、みんなでケーキでもいただきましょう。沙紀から連絡もらって、すぐに駅前に新しくできたケーキ屋さんに行って来たのよ。オープンの時は大行列でね、どれもとってもおいしいのよ。うふっ! 」
そう言って、春江が立ち上がろうとするのを康太が引き止める。
「おばさん、ちょっと待って下さい。母を呼ぶ前に、おじさんとおばさんにどうしても話しておかなければならないことがあります。聞いていただけますか? 」
何かしら? と言うように春江が首を傾げて康太を不思議そうに見た。
沙紀はもうすでにわかっていた。康太が何を話そうとしているのか。
そして康太は、自分の出生について包み隠さずすべてを沙紀の両親に語ったのだ。
春江は途中から、ううっと嗚咽を漏らし、手元のティッシュで何度も涙を拭っていた。
何も言わず最後まで康太の話を聞いていた徹は、それまで俯いていた顔を真っ直ぐに康太に向けて、言った。
「康太君。それが何だっていうんだ。すべて大人の都合だろ? 君には何の責任もない。よって沙紀との結婚にも全く支障はない。教えてくれてありがとう。私は、本当に何も知らなかったよ、今の今まで。多分、相太も知らないと思う。でもね、君の父親は誰が何と言おうと、今横浜にいる慶太君だよ。もう間違いなくね。だからこの話は聞かなかったことにする。春江もわかったな。今後、誰にも言うな。康太君。大学生の時にその事実を知った時、君がどんなに辛かったか、胸が痛いよ。でもどんな時でも君のそばにいて、ずっと離れなかった沙紀も我が娘ながら、誇りに思う。なあ、康太君。私たちが君の出生事情ごときで、二人の仲を認めないとでも思っていたのかい? 」
「はい。それも覚悟の上でした。沙紀さんは、おじさんとおばさんの大事なかけがえのない一人娘です。そんな娘さんを、このようなワケありな僕が結婚を申し込む資格があるのかと、運動会以降、ずっと悩んでいました」
「みくびってもらっちゃ困るよ。なあ、ママ。この俺を誰だと思ってるんだ。俺こそ、親不孝者の第一人者だぞ。ずっと親に逆らい、ないがしろにして来た張本人だ。そんな人間が、どうして康太君を否定できる? 小さい頃から君のことはずっと見てきた。ご両親に見守られ、何事にも真っ直ぐに取り組んで心優しく育ってきた君を、誰よりも先に認めて愛したのが我が娘の沙紀だったということなら、これ以上の喜びはないよ。娘の気持ちを受け止めてくれて、本当に嬉しく思っているんだ」
「ありがとう……ございます」
膝の上に置いた彼の手の上にぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。
康太は声を出さずに泣いていた。
沙紀も思ってもみなかった徹の言葉に、心が震える。
「親というものはありがたいものだ。親を亡くして初めてそんなことに気付く私は、君達のお手本にはならないけど、とにかく後悔のないように人生を歩んで欲しいと願うばかりだ。私のようにだけはならないようにな……」
すると、その大きな手で涙をぬぐった康太が、突然口を開いた。
「あの、おじさん、おばさん。僕にある考えがあるんです。今日はそのことをお二人と、沙紀にも聞いてもらいたくて……。話してもいいでしょうか」
沙紀はびくっと身体を震わせた。
それは、ここに来る前に康太が言っていたあのことだろうか?
早く聞きたい半面、こっそり進めようとしているマンション計画に支障がでるような内容ならどうしようと、にわかに不安を覚えるのだった。