178 ぽーかーふぇいす 1
沙紀視点になります。
最後の章になりました。
十一月の終わりの日曜の朝、沙紀はいつものようにベランダに出て伸びをして、雲一つない空を見上げた。
今日もいい天気になりそうだ。
冬の寒さを思わせるひんやりとした空気が、どこか心地いい。
すでに日が昇り、道の向こうのマンションのベランダにも、わずかばかりの洗濯物が揺れている。
長一郎の四十九日の法要も無事に終えて、ようやくひと段落着いたところだった。
だからと言って、すっかり元通りの生活にもどったというわけでもなく、この世のもうどこにも祖父がいないという寂しさと悲しみは、ともすれば日ごと強くなっていくようにさえ感じていた。
沙紀は空に向かって長一郎に話しかける。
昨日あった仕事のこと、康太との日常のこと、そして、あのこと……も。
「おじいちゃん、見てて。ずっとあたしの味方でいてね。もう迷わない。あたし、決めたから……」
長一郎が帰らぬ人となったのは、交通事故に遭った翌日のことだった。
まるで沙紀の仕事が終わるのを待っていたかのように、家族に看取られながら夜更けに静かに息を引き取ったのだ。
あれほど長一郎と仲の悪かった父の徹が、誰よりも打ちひしがれその死を悲しんだ。
おやじ、すまなかった、と棺に向かって何度も何度も繰り返すばかりで嗚咽が止むことはなかった。
沙紀もその父の震える背中を見て涙を流さずにはいられなかった。
ひき逃げの犯人も長一郎と変わらないくらいの高齢者で、深夜の警備のアルバイトを終えた後の帰宅途中の事故だったという。
もし事故後すぐに病院に運ばれていたなら、事態は変わっていたのかもしれない。
現場検証後、付近の防犯カメラの映像から、長一郎に否がないことが証明された。
幾度となく犯人の家族が実家に足を運び遺族に詫びる姿を目にするうちに、誰も彼らを責めなくなっていた。
いや、責める気力も意味もすでになくなってしまったということなのだろう。
責めたところで長一郎が戻ってくるわけではない。
罪を犯した人物が相応の罰を受け、二度とこのような事故をおこさないようにと願うばかりだとタキが力なく語る。
徹とて、初めのうちこそ犯人への憎しみを訴えていたが、次第に自分の今までの反抗的な態度への反省へと置き換わり、自分が医者を継がなかったばかりに父親を危険な目に合せてしまったと己のふがいなさをひたすら嘆く。
こんなことになるとわかっていたら、最後に一度でいいから、一緒に酒を酌み交わしたかった。
そして沙紀の結婚を一緒に祝いたかったと、今でも遺影に向かって涙を流していると、春江が悲痛な面持ちで沙紀に伝えるのだ。
人間、いつどんなことがあるかは誰にもわからない。
悔いのない人生を送るためには、心の中であれこれ思っているだけではだめなのだ。
行動あるのみだというのがよくわかった。
沙紀はネットで通帳残高を確認すると、疲れているのかまだ寝ている康太を部屋に残し、以前にも一度訪れたことのあるマンションのモデルルームに出かけて行った。
モデルルームのスタッフに見積もりを出してもらい、沙紀の貯金で頭金が賄えることを再確認する。
後に頭金の一部として組み込まれる手付け金を払えば、マンションの購入の仮契約は成立する。
防音の工事もマンションの関連会社が最大限の値引きをして請け負ってくれると話をつけた。
職場を早退できる日をスケジュールアプリで確認し、来週早々に契約日を設定すると、意気揚々と康太の待つ部屋へと帰宅を急ぐ。
「沙紀、どこに行ってたんだよ。起きたらいないから心配したんだぞ。ランニングか? 」
「う、うん。まあね。今朝はいい天気だったし、ウオーキングがてら、パンを買ってきたんだ」
「おお、うまそう。ちょっと早いけど、昼飯にしようか? 沙紀もお腹すいただろ? 」
「うん。朝ごはん食べてないし、お腹ペコペコ。康太は? 」
「俺もペコペコさ」
そう言って、両手を広げた彼に抱きしめられる。
沙紀は彼の腕の中で、再度決意を新たにする。
まだマンションのことは悟られてはいけない、と。
康太のことだ。自分のピアノのためにそんな無駄遣いは必要ないと突っぱねられることも大いに想定できるからだ。
契約さえ済ませてしまえばもう手も足も出ないだろうと、沙紀の計画は予定通りに順調に滑り出したかのように見えた。
「なあ沙紀。こうやって二人そろって休みの日に家にいることなんてめったにないよな」
夕べの残り物のシチューと焼きたてのパンを食べながら、康太が言った。
「そうだね。珍しいよね。康太は今日はピアノの練習に行かないんだ」
「ああ。そうそう甘えてばかりもいられないからな。先方にも予定があるだろうし。……で、おじいさんの事も落ち着いたし、ここらへんできちんとけじめをつけようと思ってさ」
「けじめ? 」
沙紀は半分にちぎったクロワッサンを置き、康太の顔をまじまじと見た。
「うん。これから翠台に帰る。そして沙紀の両親にあいさつをするつもりだ」
いつになく真剣な眼差しできっぱりと言う。
「あいさつ? 」
「病院でおばさんに俺たちのこと話したっきりで、あれ以来、そのことには何も触れていないだろ? おじさんとおばさんに、ちゃんと沙紀とのことを話そうと思ってる」
「そ、そうなんだ……。でも、話すって何を話すの? 結婚は前にも言ったけど、まだするつもりはないんだよ。康太が改まってあいさつとかしたら、うちのパパとママは早合点して、すぐに結婚しろって言うかもしれないし。だって、同棲してる娘を黙って放っておくわけないじゃん。だからさ、あいさつとか、まだ早いんじゃない? 」
「いや、早くなんてない。反対に遅すぎるくらいだって。中学の終わりからずっと内緒にして付き合って来たんだ。その事も含めて数々の失礼を詫びようと思っている。結婚とあいさつは別物だから。俺たちが一緒に住んでるって言ってしまって以来、おばさんの視線がどうも恐ろしくて、身が縮まる思いなんだよ」
「そうかな? あたしは別に前と変わらないと思うけど。でも、康太がそう言うなら今から行ってもいいよ」
「よし。じゃあ、膳は急げだ。食べ終わったら支度して早く出かけよう。それと、沙紀に言っておきたいこともあるし……」
はっとして康太を見た。言っておきたいことって何?
もしかして、すでにマンション購入作戦が見破られているのだろうか。
いや、そんなはずはないと、首を横に振る。
「何をそんなに驚いているんだよ。沙紀にとっては悪くない話だ。向こうに行ってから話すから、まあ、楽しみにしておいて」
その様子からすると、マンションのことではなさそうだ。
でも何の話なのだろう。
今すぐにでも聞きたいのをどうにか堪えると、さっき出かけた時の大き目のバックを持って、康太の車に乗り込んだ。