16 惹かれ合う音色
結局、告白でも何でもなかった。
ポチとコロの遊ぶ姿をぼんやりと見ながら無情にも時だけが過ぎていく。
足元の雑草が風に揺れ、数日前より昨日、昨日より今日と、日に日に涼しくなっていくのをただひたすら実感するだけの散歩タイムに他ならない。
「なあ、沙紀。もしもの話だけど」
康太が静かに話し始めた。
「もしも、俺たち、今みたいに近所に住んでなくて、遠く離れたところに暮らしていたら。どうなってたかな」
「え? それって、どういうこと? 」
突然のもしも話に面食らってしまう。
「いや、だから。もしも、だよ。もしもの話」
「あ、もしもね。なんかさあ。こうちゃんの言い方。ちょっと寂しかった。ホントに離れちゃうみたいな言い方に聞こえた」
「そんなわけないだろ? あくまでも、もしも、だ」
「そうなんだ。もしも、遠く離れたところに住んでたら、ってことだよね。どうなってたかな。多分、だけど。今みたいに仲良くなってなかったよね。っていうか、お互い知らない存在だし、顔も名前も知らない全くの他人同士」
「そうだよな。あ、でも沙紀のお父さんとうちの叔父。二人はあの通りの旧友だし、俺たちも全く知らない同士ではないのかも」
「そうだね。じゃあ、時間がかかるかもしれないけど、きっと何かのきっかけで出会って、今みたいに過ごしてるんじゃないかなって気もする」
「そっか。そんな風に思うんだ。実は俺もそんな気がする。さっき、ピアノ弾いてただろ? 」
「うん。やっぱ聞こえた? うちは防音室ないからね。どうしても音が漏れちゃうよね」
「沙紀が日本のどこに住んでいても、あのピアノの音色はいつだって沙紀のものだ。だから、沙紀の音に引き寄せられて、いつしかおまえに出会って、一緒にいる気がする」
「同じだ。あたしだってこうちゃんがどこに住んでても、こうちゃんのピアノの音に引き寄せられると思う。本当に大好きなんだ。こうちゃんのピアノ」
何気なくピアノの話しながらも、これはとてつもなく深い会話で、告白よりももっと心がときめく瞬間を味わっているような気がする。
心臓がどきどきと鼓動を刻み、次第に胸が苦しくなってくる。
「沙紀、最近ピアノの練習時間、長くなったよな」
康太が話しかけてくれる一瞬一瞬が大切に思える。
このままずっとここに座っていたい。
今まで感じたことのない康太に対する気持ちに、どぎまぎしてしまう。
「うん、まあね。部活も引退したし、勉強の気分転換にもちょうどいいんだ。ってもしかしてさっきのベートーベンソナタ、聞いてたんだよね」
「ああ。あれだけ一楽章ばっか繰り返されたんじゃあ、こっちまで悲愴になりそうだったよ。これからはせめて二楽章までは弾いてくれよな」
「わかった。でももう大丈夫だよ。こうちゃんもあたしに意地悪して無視してたんじゃないってわかったしね。この次はもっとロマンチックなのを選曲するからさ。あたしの大人っぽさに一番に気付いてくれたこうちゃんへのお礼だよ」
そんな自分にドキドキしてくれたことも含めて、お返しがしたい。
けれど、恥ずかしくてそこまでは言えなかった。
「ありがとう。楽しみだな」
「まかしといて」
「なあ、沙紀。沙紀のピアノ、今のうちにいっぱい聞いておきたいんだ。ショパンもプロコフィエフもドビュッシーもモーツアルトも……」
夕日に照らされた康太の横顔がどこか寂しそうで、沙紀はとたんに不安になった。
「こうちゃん、なんか変だよ? なんで今のうちなの? さっきのもしもの話もそうだし、今のうちにあたしのピアノが聞きたいとか、それじゃあまるで、こうちゃんがいなくなっちゃうみたいじゃない」
康太は一瞬顔をしかめたが、すぐにいつものクールな横顔にもどった。
「いなくなんかならないさ。いつだって二階のあの部屋にいるに決まってるだろ」
「そっか。そうだよね。もしどこかに行っちゃうのなら、ママが教えてくれるはずだし」
「第一、俺がいなくなるなんてこと、絶対にありえないし。沙紀のそばから離れるなんてことはないから」
またひとつ、心臓がドキッとする。
そうなんだ。彼は離れないと言ってくれた。
「うん。わかった」
もうこれで十分だ。告白よりも嬉しい言葉に心が震える。
が、それもここまで。康太の本性が再び姿を現し始める。
「まだまだ沙紀のピアノは俺に敵わないだろ? もっともっと練習しろ、って意味で、今のうちにいっぱい聞きたいって言ってんの」
「そっか。そういう意味なんだ。でもなんか悔しい。高校生になったら、絶対にこうちゃんを追い抜く! 」
「ほー。言ってくれますね。でもそうはいかない。俺だって沙紀の百倍は練習するんで。その差は縮まるどころか開く一方だと思いますが」
「じゃあ、あたしはこうちゃんの千倍練習する」
「千倍? 現実的に無理な数値ですが? 」
「百倍だって、非現実的じゃん」
「とにかく、俺は沙紀には一生負けないってことだけは宣言させてもらう」
「あああ、イライラしてきた。こうちゃんって、やっぱりあたしを怒らせる名人だ。ほんっとに腹が立つ! こんな話するためにここに来たわけじゃないのに。もっとこう、ロマンチックな……って、ああ、来て損した。こうちゃんのいじわる! 」
沙紀はその場に立ち上がり、ポチのリードを短く持つ。
「沙紀。ご、ゴメン! そんなに怒るなよ。悪かったよ。沙紀はもう十分に練習しているよ。俺よか、いい音出してるし。だから……。問題集とノートよろしく! 」
沙紀は背中の向こうでほざいている往生際の悪い隣人を振り返ることもせず、自慢の健脚を最大限に生かして、猛ダッシュで帰路に着いたのだった。