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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第十五章 ショパン ピアノ協奏曲第一番ホ短調
177/188

175 祖父と

 すると、急に目の前のドアが開き、康太の姿を目にしたその人が真っ赤に充血した目を見開いた。


「こうちゃん……? そうだね、こうちゃんだね。こんなところまで来てくれたのかい? それはそれはどうもありがとう」


 沙紀の祖母のタキだった。

 以前より丸まった背中をわずかに伸ばし、冷たい手で、康太の手を握った。


「あの、おじいさんの容態は……」

「意識はしっかりしてますよ。本当に気丈な人です。こちらの先生もびっくりしておられましたよ。麻酔から醒めた後、沙紀を見て時折涙ぐんで。ただ、出血がひどくてね。骨折部分も、内蔵も。緊急手術は終わったんだけど、あまりいい状態ではないと……」


 タキはしわくちゃのハンカチを目頭に当てて、涙を拭った。


「こうちゃんもよかったら院長に会ってやってちょうだい」

「はい。親族でもない僕が中に入ってもいいんでしょうか? 」

「大丈夫。こうちゃんは、もう随分前から、私たちの孫も同然。親族ですからね。院長も喜びますよ。あ、看護師さん。この子はね、孫のお婿さんです。なので、中に入れてもらいますからね」


 タキが、病室から出てきた看護師を呼び止めて、康太の入室の許可を求めた。


「あ、そうですか。お孫さんの旦那様ならどうぞ。どうか優しく話しかけてあげて下さいね。意識ははっきりなさっていますからね」


 そう言ってにっこりした後、急ぎ足でどこかに消えていった。


「じゃあね、こうちゃん。私は、ちょっと親戚に電話をかけて来ます。では」


 そう言って、タキがロビーの方に降りて行った。


 康太は小さく戸をノックすると、病室にいた何人かの視線がすべて彼の方に注がれるのを感じた。

 ベッドの脇に沙紀と沙紀の父の徹が座り、その後ろに春江と徹の弟の配偶者と思われる女性が立っていた。

 沙紀は驚きながらもどこかほっとしたような表情を浮かべて、小さく、康太とその慣れ親しんだ名を呼んだ。


「来てくれたんだ。ありがと。でも、運動会の準備とかは? 」

「大丈夫だ。何も心配いらないから」

「康太、ありがとう……」


 沙紀が大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら立ち上がり、康太のそばにやって来た。

 ところが、徹と春江はまだ事態が呑み込めていないのか、訝しげに康太を見る。


「こうちゃん。来てくれてありがとう。でも、どうしてわざわざこんなところまで……。仕事は? いいのかい? 」


 康太が沙紀と付き合ってるなどと、全くその事実を知らない徹が不思議がるのも無理はない。

 面会謝絶の病室で、親族を集めて患者に声をかけてくれという、切羽詰ったこの状況で、どうして部外者の康太が入ってくるのか考えあぐねているのだろう。


「おじさん、おばさん。こんにちは。お久しぶりです。僕の仕事は大丈夫です。きちんと校長に許可をもらって来ましたので。で、おじいさんの容態は……」

「見てのとおりだよ。ずっとこんな状態でね。うとうと眠ってはうっすら目を開けて、また眠って、の繰り返しなんだ。こうちゃんは小さい頃に会ったきりだろ? 父は君のこと覚えてないんじゃないかな」


 何も知らない徹がそんな風に言うや否や、長一郎がささやくような声で、康太を呼んだ。


「こうちゃん……かい? よく……来てくれた。顔を見せてくれ」


 点滴の管がぶら下がった手をゆっくり動かして、康太を呼び寄せる。


「おじいさん、康太です。おばさんから学校に電話をもらって、交通事故だと聞いてもうびっくりして……」


 康太はかがみこみ、長一郎と同じ目線の高さで話しかける。


「こうちゃん、仕事中なのに、わざわざ来てもらって悪いね。私はね、多分、もうそんなに長くはないよ」

「そ、そんな……」

「沙紀をね、沙紀を頼むよ。おまえたちの結婚式は見られないけど、いつも二人で顔を見せてくれて、私はね、とても幸せだったよ」

「今年はまだ一度もお伺いできずに、すみませんでした。運動会が終わったら、沙紀と一緒に遊びに行こうと言っていたところです」

「そうかい、そうかい。ピアノは続けてるのかい? 君が演奏しているあのCDはいつも聴かせてもらっているよ。素晴らしいね。私はね、クラシック音楽が大好きでね。だから沙紀がピアノを習うと言った時は、本当に嬉しかったんだよ。そしたらどうだい? こうちゃんが、プロの演奏家として認められて。私は鼻が高かったよ。孫の彼氏なんだって、みんなに自慢しているんだよ。でね、ゆくゆくは沙紀に相崎医院を継いでもらいたかったけど……。沙紀はあのとおり、幼稚園で頑張っているだろう? 後は(わたる)夫婦にまかせたから。その後は、誰か親戚が継いでくれればいいと思っている。だから、もう心配はいらないよ。こうちゃん、沙紀、幸せになるんだよ」


 そこまで言い終わると、ふうっとため息をつき、また目を閉じる。

 康太は一瞬、このまま長一郎が一生の眠りについてしまったのではないかとあらぬ考えが脳裏をよぎったが、繋がれているスコープに映し出された心拍数や低めの血圧に変化はなく、安堵したのも束の間……。

 春江が狐につままれたような顔をして、沙紀と康太の腕を取り、ちょっとと言って、二人を廊下に出るように促した。

 同じように唖然としている徹を病室に残し、康太は沙紀と共に足音をしのばせるようにして静かに廊下に出た。


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