172 夢の断片
『先生、それなんですけど、ちょっと聞いてくれます? 今日という今日は、ほんっとに参りましたよ。いやね、近所のかかりつけの小児科が先月医院を閉めてしまって」
「そうなんですか。それで? 」
『おじいちゃん先生だったんですけど、それはそれはとってもいい先生でね』
「はい」
沙紀は祖父の姿を思い浮かべながら、相づちを打つ。
『ところが、先生には後継者がいなくてね。子どもさんは医者なんだけど、内科じゃなくて、外科医。それも海外で勤務ですって。知り合いの医師に後継を頼んでも、小児科は継げないと言われて、泣く泣く、医院を閉めちゃって。それで、紹介してもらった隣の市の総合病院で最近は診てもらっているんですけど、ほら、うちの子、アレルギーとかもあるでしょ? だから、どこの病院でもいいってわけにはいかなくて。そしたら、その病院、すごい患者さんの数でね。九時に受付してもらったのに、やっぱ、予約の人が優先だから、うちの子みたいに緊急性のない飛び入りは、診察が終わったのが一時過ぎで、今やっと薬をもらって薬局の駐車場に来たところなんですよ』
「ええっ? まだ調剤薬局なんですか? 」
沙紀は職員室の正面にある時計に目をやり、現在の時刻を確認する。
『そうなんですよ。先生もびっくりするでしょ? まだうちの子の後ろにも待ってる人が大勢いてね。お医者様も薬剤師さんも患者もそりゃあ大変だわ。うちと同じように診察が終わってから幼稚園や学校に行くって心積もりの人は、みんなあきらめ顔でしたよ。直哉も途中でぶち切れちゃって、もう二度と病院なんて行かないって機嫌の悪いことったら……。そうそう、ご心配おかけしましたが、風邪の方はたいしたことないって言われました。そうだろうなとは思ってたんですけど、赤ん坊の時に熱性痙攣を起こしているものだから、風邪だからって見過ごせなくてね。それにしてもあれじゃあ、もう病院にも行けませんよ。産婦人科も閉鎖してるところが多くなってるって聞いてたけど、まさか小児科もこんなことになってるなんて……。先生も早いとこ結婚なさって、子ども産んだほうがいいですよ。医者がいなくなっちゃいますからね』
「は、はい。そ、そのようですね」
沙紀は直哉が心配するほどの症状では無いと聞きほっとしたが、保護者に結婚出産を急かされて複雑な心境になる。
けれど、自分のことはさておいても、世の中の医療体制がかなり深刻な状況に陥っているのは周知の事実だ。
沙紀の祖父の医院は看板には相崎内科・小児科と記されているが、長一郎の人柄がクチコミで広がり、今ではほぼ小児科化していると先日も聞かされたばかりだった。
かなり遠くからも患者が来るため、待合室は子どもと老人で溢れかえっているらしい。
『相崎先生、明日はちゃんと時間通りに登園しますね。運動会の練習もいつもどおりに参加させてください。では失礼します』
言いたいことを言って勝手に電話を切られた感もぬぐえないが、たとえ電話であっても保護者との本音のやり取りは信頼関係を築き上げる上でも必用不可欠なものだ。
それが保育に直接結びつくものでなくても、そのひとつひとつが沙紀を教師として着実に前進させているのは間違いない。
そしてこの電話の内容が、ずっと沙紀の脳裏から離れないことこそ、彼女が結婚を渋るもう一つの理由でもあるのだ。
それを実現するとなるとマンションの頭金では済まないほどの莫大な資金もかかる。
沙紀はベッドの中で何度も寝返りをうち、すっかりなりを潜めていたはずのある考えが、むくむくと頭をもたげ始めるのを必死で打ち消そうと悶えていた。
康太がピアニストになるという夢が叶ったら、彼と結婚して……。
そして子供を産み、世界に羽ばたく彼を陰で支えながら、幼稚園の仕事も両立させて……。
沙紀は自分の描いているこの夢こそが一番自分にふさわしいと思い込もうとするのだが、いつの間にか祖父の医院の椅子に白衣を着た自分が座り、子ども達を診察している姿と取って代わるのだ。
もうとっくにあきらめたはずの医療への道をいまだ追う自分がいることを、認めざるを得ないところまで来ていた。
どうしたらいい?
あたしは今のこの仕事が好き。
子ども達と歌ったり、いろいろな物を作ったり……。
幼稚園の仕事が大好きなはずだ。
なのに、どうして? なんで白衣を着なきゃならないの?
やっぱり、医者になりたいのだろうか。
おじいちゃんみたいな、みんなに頼りにされるお医者様に。
いや、そんなことはない。何をいまさらそんなこと言ってるんだろう。
無理に決まってる。医学部に入るなんて無理に……決まって……。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
心配そうな顔をした康太が寝ぼけ眼の沙紀を覗き込んでいる。
「沙紀。どうしたんだい? うなされてたみたいだぞ」
「あ、あたし寝ちゃったみたいだね。大丈夫。ちょっと変な夢を見ただけ。ごめんね、仕事の邪魔をして……」
と最後まで言い終わらないうちにその唇は瞬く間に康太にふさがれる。
沙紀は様々な邪念を払いのけるようにして、彼との触れ合いに没頭していく。
そうだ。今は、この人のことだけ考えるようにしよう。
彼の幸せが沙紀自身の幸せなのだから。
そして二人の夜は静かに、時に激しく更けていくのだった。