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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第十五章 ショパン ピアノ協奏曲第一番ホ短調
172/188

170 ないよりあった方がいい

「なあ、沙紀。また、腕上げたな。焼き魚も煮物もうまいよ。でも仕事がきつい時はコンビニの弁当でもパンでもいいから。無理するなよ」


 沙紀の用意した夕食を満足そうに口に運びながら、康太が沙紀を優しく気遣う。


「えへへへ。いつものことだけど、ママのおかげだよ。康太がなんでもおいしいって言ってくれるから、あたし、かなり乗せられちゃってる気もしないでもないけど……。それに自炊した方が経済的だしね。その煮物に入ってる人参、いくらだったと思う? 」

「一本だろ? 百円くらいか? 」

「ブーーー! ハズレ! 大き目の袋にじゃがいも玉ねぎも合わせて詰め放題で、百九十八円!! 全部で十個は買えたよ」

「安っ! 俺、いつも思うんだけど、沙紀って意外と倹約家だよな。そんなに金貯めて、いったいどうするんだい? 」

「えっ? あっ、ま、まあね。お金って、ないよりあった方がいいし。将来のためだよ。旅行だって行きたいし、本も買いたいし。それを言うなら康太だって……。ほとんど何も買わないでしょ? お酒もたばこもやんないし、携帯だってほぼ基本料金。服も全然買わないし……。そっちこそ、そんなに貯金してどうするつもりなの? 」

「そ、それは……。まあ、そのうちな。時期が来たら……」

「時期が来たら? 何それ。そんな思わせぶりなこと言わないでよ。いったい何なの? 」

「なんでもないよ。金はないよりあった方がいいだろ? ただそれだけさ」

「あ、それ、あたしのマネしてる」

「沙紀と同じだよ。そのうち海外旅行とかも行ってみたいし、車も買いたいし。そんなところだよ」

「ホントに? 車だったら、もう充分に買えるんじゃない? もしかして、外車とか狙ってる? 」

「外車? ま、まあね、そんなことも、ありかな? 」


 康太が何か理由を隠しているような気がして沙紀は落ち着かない。

 でもそれを訊けば沙紀もひたすら貯金をしている理由を彼に話さなければならなくなる。

 知りたい気持ちをぐっと抑えて、出てくる言葉を呑み込んだ。


 沙紀が貯金に励むのにはそれなりの理由があった。

 それは康太のためだ。

 彼が仕事に熱心に取り組んでいるのは周知の事実だ。学校中の誰もが認めるところでもある。


 ところが沙紀は気付いていたのだ。

 康太が心の奥底で、まだピアノに終止符を打っていないことを。


 コンクールで優勝した後、目標は達成できたからと、以前ほどピアノに向かわなくなっていた。

 彼が今住所を置いているハイツには、グランドピアノはもちろん、アップライトピアノも持ち込めない決まりになっている。

 そのため、たまたま雅人の知り合いでもある付属小学校の音楽専科の教師の家で休日ごとに練習させてもらっているのだ。

 普段は沙紀のマンションにある電子ピアノを一緒に共有して使っているが、微妙なタッチの変化などを表現するのには、いささか不向きなところもある。

 日本国内でも指折りの若手ピアニストに位置する人間の生活環境にしては、とても厳しい状況にあるのは否めなかった。

 沙紀は康太の練習不足が心配で心配でたまらない。

 そのため、なんとしても頭金を貯めて分譲マンションを買い、防音工事を施したレッスン室を彼のために準備する必要があったのだ。


 康太はこのままでは絶対に終わらない。

 いつか必ず世界に羽ばたく日が来る……と今なお沙紀はそう信じている。

 このことは、目標の金額に到達する日まで、何があっても康太に知られてはいけない。

 隠密にことを運ぶ必要があったので、貯金の理由はまだ誰にも話せないでいた。


「そ、それにしても今夜は遅かったね。この後もまだ仕事するんでしょ? 」


 沙紀は墓穴を掘ることを怖れて、あわてて話題を変えた。


「ああ。毎年この時期は仕方ないよ。付属に転勤してからますますひどいけど。でもまあ、そのお蔭で沙紀とこうやって過ごせるんだし、嫌じゃないよ、今の状況」


 そう言って昔と変わらない笑顔を浮かべる。

 そうなのだ。嬉しいことに今年に入ってから、こうやって康太と一緒に過ごす時間がめっきり増えた。

 同じ職場で頻繁に顔を合わせながらも、親しげに話すわけにもいかず、かと言って、多忙を極めるあまり、休日のデートもままならない。

 いつの間にか、夜にどちらかの家で過ごすようになり、結果、今のような暮らしぶりに落ち着いたわけである。


 幸い付属に通ってくる子ども達は、学校区に関係なく広いエリアにまんべんなく住んでいるため、単身者世帯が多い沙紀のマンション付近では、彼らと出会うことはほとんどない。

 というか、全く会ったことはない。


 たとえ同僚に見つかったとしても、プライベートは互いに詮索しない暗黙の了解みたいなものが存在するので、別段咎められることもないだろう。

 だが教育者の行いとしてどうかと問われれば、あまり褒められたことではないのかもしれないが……。

 まあ、沙紀も康太も職場に最後まで残って仕事熱心なのは皆が知っていることなので、それ以降の私事まで首を突っ込んでくる暇人は、もはや誰もいないということなのだろう。


 時折春江が沙紀の様子を見にこのマンションにやってくるので気が抜けないが、今のところボロをだすこともなく、うまく立ち回っている。


「昨日、おふくろに会ったんだろ? 相変わらずか? 」


 二膳目のご飯を食べながら、康太が訊ねる。

 彼の両親は二年前に帰国して、母親の夏子は以前の翠台の家に、そして、父親の慶太は横浜に単身赴任をしている。

 ドイツで携わっていた貿易関係の仕事が軌道に乗り、横浜支店を設けるまでに事業が拡大したのだ。


「うん。元気そうだったよ。そんなこと訊くくらいなら、康太も夏子先生に会えばよかったのに」

「別に会いたかねえよ。うるさいからな、いろいろと」

「親はね、いつまでたっても子どものことが心配なのよ。でもね、また言われちゃった。あたしが結婚したら……って」


 それを聞いたとたん、康太が飲んでいた味噌汁をぶっと噴き出す。


「あーーん、もう! 何やってんのよ。だから、あたしたちが結婚するってことじゃなくて、あたしが誰が他の人と結婚したら、もうこれまでのように気楽に会えなくなるねって、夏子先生が涙ぐむってこと」

「……でも、なんか俺、責任感じるよな。俺の親も沙紀の親も、まだ俺たちのこと何も知らないんだし。そろそろちゃんとするかって思うけど、沙紀がまだ結婚は早いっていうし。それにこの忙しさじゃ、結婚準備のあれこれを整える時間もないしな」

「康太、誤解しないでよね。あたしはホントに結婚はまだ考えてないの。いや、全然考えられない。もっともっと働きたいし、康太だって……独身の方が、身動きも取りやすいでしょ? 」

「身動き? 別に結婚したって今と変わらないと思うけど。でも同じ職場で結婚するとなるといろいろ不都合もあるしな。どちらかが次に転勤になった時には、本気で考えるつもりだよ。だからそのつもりで、覚悟しといてよ」

「……わかった」


 沙紀は返事をしたものの、本当はわかってなどいないのだ。

 もし今、この段階で結婚を急いでしまうと、ますます康太のピアノへの意欲が置き去りになりそうな気がしてならなかったのだ。

 それだけはなんとしても避けたいと、極力結婚は遠ざけてきた。

 

 それと……。もうひとつ、結婚を渋る理由があったのだ。

 それは康太とは直接関係のないことなのだが、沙紀が自分自身にずっと問いかけていることだった。


 食卓テーブルでノートパソコンを開いて仕事を続ける康太をその場に残し、ひとりベッドにもぐり込んだ沙紀は、その日幼稚園であったあることを思い出していたのだった。


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