169 ロンド
沙紀は鯖の切り身をガスコンロの中央部にあるグリルの焼き網に並べながら、考え込んでいた。
「うーーん。ママはどうやって魚を焼いていたっけ? 火加減は? 塩はいつ振ればいい? 」
腕を組み、一人でぶつぶつと話し始める。
一人暮らしをするようになって一年半が経つ。
時間のあるときはなるべく自炊をするように心がけているのだが、わかっているつもりで、いざやってみるとどうすればいいのかてこずることも多い。
魚の切り身なんて、焼けばいいだけじゃん……などと思っていても、どっちの面から焼くのか、はたまた余熱をした方がいいのか、塩はいつふればいいのか、などなど、考えれば考えるほど複雑で頭が痛くなる。
ネットで調べれば瞬時に解決する事も多いけど、ついつい携帯を手に母親の春江に電話をして聞いてしまう。
その日もやはりいつもと同じだった。
エプロンのポケットから携帯を取り出し春江を呼びだす。
いきなり、魚の焼き方なんだけどさあ……と、繋がったとたんに前置きもなく話し始める。
『前も教えてあげたじゃない。フライパンで炒め物をする時と同じで、少し余熱をして、網を温めて魚の身の方から焼くのよ。仕上げに皮。いいわね。塩は振ったの? 受け皿に水を張るタイプのコンロよね? なら水を入れて。そういえば、網に酢をぬっておくといいって前にテレビで言ってたわ。皮がくっつきにくくなるんだって。で、今度はいつ帰って……の……』
ありがと、じゃあねと最後まで話を聞かずに切るのもいつものこと。
知りたいことだけわかればそれでいいとばかりに、次の瞬間にはもう電話をしたことすら忘れてしまっている。
それも仕方のないことなのだ。
もうすぐ愛しい人がここに帰ってくるのだから。
一人暮らしであるはずのこの部屋に、あの人が……。
夕食は先に帰ってきた方が作ることになっている。
先週は沙紀の方が遅い日が多かったので、彼特製のカレーが三日続いた。
でも今週は沙紀の方が早く帰れる予定だ。
あんなに嫌いだった魚も自分で料理をするようになると、不思議と頻繁に食卓に上るようになるから不思議なものだ。
自分だけではなく、一緒に食べる相手がいると、栄養のバランスもあれこれ工夫して調理するようになる。いっぱしの主婦気取りだ。
色よく焼けた魚を盛り付け、サラダと煮物をテーブルに並べた。
後はご飯と味噌汁を用意すればオッケーだ。
沙紀はエプロンをはずし、通勤バッグとは思えないほどの大きなカバンからノートを取り出し、明日の保育指導計画を立て始める。
教育大付属の幼稚園がこれほどまでに多忙だとは思わなかったのだ。
頻繁に実習生を受け入れ、合間に現行の教師の研修も行なわれる。
小学校で言うところの研究授業というやつだ。
そのために取り揃える資料やレジュメも多く、保育そのものの実務よりも、事務その他の雑用に日々追い回されることの方が多い状況が続いている。
それは小学校に勤める康太とて同じだった。
それでなくても行事の多い二学期に実習生の指導も重なり、定時に家に帰るなど、とてもじゃないが不可能である。
時計を見ればもうすぐ九時。
沙紀は彼と一緒に食事をするのをあきらめ、一人でテーブルにつく。
ここは沙紀が借りている1LDKのマンションだ。
セキュリティーも万全で女性の一人暮らしに持って来いのこの物件を迷うことなく選んだ。
何分この辺りは、最近ようやくニュータウンの建設が始まったばかりの郊外だ。
選ぶほどの物件が大量にあるわけでもなく、必然的にここになったというだけで……ある。
ひとり寂しく食事を終え、シャワーをあび、オーディオのスイッチをオンにする。
CDからはショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調が流れる。
オーケストラの重厚な響きにピアノの音色がひときわ甘く重なり、沙紀はうっとりと目を閉じる。
そこに浮かぶのは康太の晴れ舞台だった。
そうなのだ。このCDは康太が一年前に国内のコンクールで優勝した時の、正真正銘彼本人の本選の演奏の収録だったりする。
二度目の挑戦で勝ち取った栄冠に沙紀も一緒に酔いしれていた。
現職小学校教員の快挙と新聞紙面を飾り、音楽雑誌を賑わせたのがつい昨日のことのように思い出される。
その後、演奏依頼やテレビ出演の話もあったが、仕事を大切にしたいという理由で、今は沈黙を守ったままだ。
兄である星川からは以前にも増して渡米するようラブコールがかかるが、それすら一笑に付して仕事第一のスタンスをあくまでも貫き通している。
第三楽章の軽快なロンドのところでは、あまりの緊張と感激で感極まり、観客席で彼の演奏を聴きながらも涙が止まらなくなった失態をやらかした。
沙紀はその後、何度この部分を聴いても平静ではいられなくなり、泣いてしまうのだ。
胸に抱いたクッションカバーにまたもや涙のしみを作ってしまう。
こんなに楽しくてかわいらしいピアノソロの場面で泣き出す自分に、心底からあきれながら……。
その時玄関のチャイムが鳴り、彼が鍵を開けて中に入って来るのがわかった。
また泣き顔を見られるのかと思うと少し気が重くなるが、いつものことだと思えばあきらめもつく。
沙紀はパジャマ姿のまま玄関に向かい、待ち焦がれた同居人に抱きつき、本日二回目のキスを彼に贈った。