168 未来への道
星川を見送り、水田を家まで送り届けたあと、沙紀は康太の家のピアノレッスン室に来ていた。
彼が今からピアノを弾くので、聴いて欲しいと言われたのだ。
沙紀は彼の気持ちが痛いほどわかる。
空港で星川が康太に最後に残した言葉が、康太を居ても立ってもいられなくしたのだろう。
「吉野。俺は待ってるから。君がどんなに嫌がっても、必ず呼び寄せる。それまでピアノをさぼるなよ。そしてオヤジのこと、よろしく頼む……」
そう言って、康太と握手をして別れた星川の目が本気だったことは、沙紀にも理解できた。
エアコンを作動させてまだ数秒しか経っていない室内は、ムッとしていて息苦しささえ感じるが、彼はそんなことは意に介さないとでも言うように、ピアノの前に陣取る。
沙紀が壁際に置いてある椅子に座るのを待つことなく、彼のしなやかな指が鍵盤の左端から音を紡ぎ始める。
ショパンのバラード第一番だった。
彼が高校に入学して間もない頃、星川に初めて聴かせた曲でもある。
そして沙紀も今、この曲を練習中でもあった。
どんな思いで弾いているのか計り知れないが、彼が無心にピアノに向かっているだろうことは、ひしひしと伝わってくる。
力強さの中にもエレガントさを失わない康太の演奏は沙紀の耳に心地よいうねりをもたらすのだ。
でも、時折乱れるリズムを不信に思った沙紀が、康太のそばに近寄りその横顔をそっと見た。
康太の頬を伝った涙が、顎から腕に、手の甲に、そして鍵盤を濡らしているのがわかった。
それでも彼は、最後まで弾くのを辞めなかった。
そして弾き終わった時、沙紀は無意識のうちに椅子に座ったままの康太を後ろから抱きしめていた。
何も言わなくてもいい。
そう、いつだって康太は康太のままだ。そのままでいい。
沙紀はただ黙って、康太をその腕の中に包み込んでいた。
康太はずっと涙を流し続けていた。
声を押し殺すように、そして、沙紀の腕にすがりつくようにして泣いていた。
生まれた時から何の疑いもなく、その両親の子どもとして育ち、沙紀と出会い、サッカーに打ち込み、ピアノに時を費やし。
誰よりも尊敬していて、大好きだった人が本当の父親でないと知った時の驚きと悲しみは察して余りある。
そしてその両親とはもう何年も別れて暮らし、彼の心細さと寂しさは想像を絶するものなのだろう。
彼の悲しみは、もはや他人のそれではなく、沙紀自身の悲しみでもあった。
どれくらいそうしていたのだろうか。
沙紀、とつぶやきながら、康太が立ち上がった。
何秒間かお互いに見つめ合った後、唇を重ねる。
今日、何度目のキスなのか、もう数えるのも放棄するほど幾度も唇を合せて……。
ここがレッスン室であることも忘れるほど、それは激しさを増していった。
コンコン……。
ドアがノックされる音で我に返った二人は、大慌てで素の姿に戻ろうと試みるのだが、時すでに遅し。
「はいはい、お二人さん。邪魔して悪いけど、今からお兄さんにここを譲ってくれないかな? 康太くーん、沙紀ちゃーーん。お取込み中、申し訳ないね。運動会のための校歌と応援歌の伴奏を録音するって前から言ってただろ? さあ、交代、交代。いひひひひ……」
と、にやつく雅人にこてんぱんにからかわれるのだった。
その日の夜、郵便物の中に自分宛の葉書を見つけた沙紀は、翠台の町中に響き渡るような声を出して叫んでいた。
「きゃーーー! ご、合格。合格した」
隣の市の幼稚園教員採用試験の一次試験合格通知を手にした沙紀は、喜びを真っ先に康太に伝えに行った。
そして康太はその数日後に、県の小学校教員採用試験の一次試験合格を手にすることになる。
こうやって、二次試験も無事突破した二人は、大学卒業後にそれぞれの職場で教員として仕事に携わることになった。
慣れない仕事にくたくたになる日々だったが、週末には必ず康太と会い、月に一度はピアノのレッスンも受けていた。
二人で支え合い、職場では先輩方に教えを請い、なんとか三年間の職務を終えて、転勤の辞令を受けた沙紀はありえない現実に直面する。
それは沙紀が卒業した教育大の付属教育機関への転勤命令だった。
それも、家からは到底通えない県のはずれにある幼稚園だ。
初めての一人暮らしに不安で押しつぶされそうな日々の中、もう一つの信じられない出来事に遭遇する。
なんと、康太も同じ敷地内にある小学校に転勤が決まったのだ。
つまり同じところに偶然にも二人そろって勤務することになるという、奇想天外な現実が待っていた。
付属での勤務も二年目になり、それなりに軌道に乗り始めていた。
広大な敷地には幼稚園から高校までの教育施設が整っている。
幼稚園と小学校は同じ建物の中にあり、職員室も一緒だ。
沙紀は幼稚園の年長組の担任として、そして康太は小学校六年の担任として、あわただしい日々を送っていた。
お読みいただきありがとうございます。
やっと、物語冒頭の場面にたどりつきました。
二人が勤務する付属学校についてですが、私自身が幼児の頃、普通の公立幼稚園で小学校と合併している形態のところに通っていたので、こんな偶然もあるかも、と設定しました。
先生の職員室も一緒だったし、運動会とかの行事も小学校と一緒でした。
なつかしい……。
最終話まであとわずかになりましたが、どうか最後までお付き合いいただけますようお願い申し上げます。