167 合鍵の意味
「それに……。間違いなく、吉野君はおまえの弟なんだよ。こればかりはどんな言い訳もしない。橙子にも全部話した」
木下と目を合わせた母親が、伏し目がちに頷く。
「それと……おまえがアメリカに行くことは、反対はしない。若いうちにやりたいことはやるべきだと思う。渡米費用もおまえが自分で稼いだ金なんだろ? 大学の学費もこっちが全部出すと言ってもおまえは必要ないと言って聞かなかった。結果、多額の奨学金の返済を負っているはずだ。結局私はおまえにはほとんど何もしてやれなかった……。ただし、憎しみはこれっきりにして欲しい。そして、純粋に音楽の勉強をするという条件つきなら、おまがどこで何をしようと私はもう何も言うまい。水無瀬は私の一番信頼できる後輩だ。あいつに任せておけば何も心配はいらないだろう。今回の話も、彼からすでに全部聞いたよ」
「え? 」
「私の目は節穴とでも? 水無瀬はおまえの熱意に負けて、私に内緒で事を進めようとしていたのだが、親切な卒業生がいろいろ情報をくれてね。あいにく水無瀬の周囲には、私の教え子が何人かいるからな。それと……。杏子ちゃんをこれ以上泣かすな。どうやら、恋愛に不器用なところだけは、私に似てしまったみたいだな……」
木下の話をじっと聞いていた星川は、ふっと小さく笑みを漏らすと、腕時計に目をやった。
「あまりにも一時にいろいろなことが押し寄せて、処理しきれないな、まったく」
「そうだな。本当におまえには辛い思いをさせてしまった。全部、私のせいだ。本当にすまない」
「違うの、篤也。お父さんは悪くない。私があなたとお父さんを引き裂いてしまった張本人よ。音楽ばかりに夢中になるお父さんを許せなかったのよ。私のことなんてどうでもいいんだって、悲劇のヒロインになりきっていたのね。そもそも、お父さんが憎いのじゃなくて、音楽が憎かったのよ、きっと……。その後にお父さんに新たな出会いがあったとしても、それは仕方のないこと。私が自分で選んだ道ですもの」
「母さん……」
「でもね、お父さんの元に押しかけるようにして結婚して、この人のそばで音楽に触れるうちに、今度は私の方が音楽に夢中になってしまって。篤也をお父さんに看てもらって、ピアノ室にこもりきりになる日々が続いたの。そして音楽に満ち溢れたザルツブルクの街は、私を惹きつけて止まなかった。演奏会にも毎晩のように通ったわ。日本に帰って来てからは、幼稚園側の配慮で大学院に行かせてもらって、音楽教育について研究と実践を続けながら、今にいたっている。それもこれも、すべて、お父さんの理解があったからこそ、成し得たことだと思ってるわ。だからお願い、お父さんのこと、許してほしいの。篤也のお父さんは、正真正銘、今ここにいる篤弘さんだから。水無瀬さんは、私とお父さんのパイプ役をして下さっていただけ。本当よ。水無瀬さんには、ちゃんとお相手がいらっしゃるし」
「そ、そうなのか? ……わかった。母さん、わかったから。それと、父さん。今聞いたことを、すぐにはいそうですかと認められるほど、俺もまだそこまで人間が出来ちゃいない。でも、多分、吉野や母さんが言ったことが真実なんだろうな、と思うよ。とにかく水無瀬さんに導いてもらったこのチャンスは、モノにしてみせるつもりだ。そのうち全米中に、いや、世界中に俺の名を轟かせて見せる。絶対に。なあ、杏子……」
背後で声も出せず固まったままの水田に、振り向かないまま星川が話しかけた。
「向こうに着いて落ち着いたら、一度アメリカに来て欲しい。いろいろ話し合いたい。ここは外野が多すぎて、込み入った話は無理だろ? 」
「篤也……」
「杏子、お願いがある。空港まで……。一緒にきてくれるか? 」
水田は涙を堪えながら何度も頷いていた。
再び携帯を握って電話をかけようとしている星川に向かって康太が歩み寄る。
「タクシー、呼ぶつもりですよね? それなら、必要ないですよ。空港まで俺が送っていきます」
「いいのか? 」
星川がそれまでのとげとげしさを取り払って、康太に訊ねる。
「ええ、もちろん。ちょっと待っててください。車、ここに回しますね」
「康太、あたしも行く」
すかさず沙紀が康太に追従する。
「わかった。じゃあ、急ごう」
「あ、康太、ちょっと待って。あのう……水田先輩。玄関のドアが開いていたみたいなんで……。もしよかったら、あたしが閉めてきましょうか? 」
沙紀に言われて、ようやく家のドアを開けっ放しでここまで駆けつけたことに気がついたのだろう。
あっ! と驚いたような声を出したとたん、水田がおろおろし始める。
「た、大変。私、鍵、持ってないわ。多分、バッグの中。じゃあ、私も一度家に帰って戸締りして……」
「杏子、いいからここにいて。相崎。じゃあ、戸締り頼むよ。はい、これ」
スラックスのポケットの中をごそごそとかき回していた星川が、小さなピアノのキーホルダーが付いた鍵を取り出すと、沙紀にそれを手渡した。
「任せてください! では、すぐにここに戻るので、待っててくださいね」
と声高らかに当たり前のように鍵を受け取り、康太と共に駆け出す沙紀だったが、木下家が見えなくなったところで急に足を止めてしまった。
康太も少し先に行ったところで立ち止まった。
「おい。どうしたんだ。早くしないと、先輩たちを待たせてしまうぞ」
「あ、うん……。康太、あのね。あたし、ふと思ったんだけど」
「何? こんな時に何を思いついたって言うんだ? 」
「今この鍵、確か、星川部長から受け取ったよね? 」
「ああ、そうだけど。それが何か? 」
「で、この鍵。水田先輩の家の鍵だよね? 」
「そのようだけど……」
「つまり、彼女の家の合鍵を部長が持ってたってことだよね? 」
「そういうこと、だな……」
「ふふふふ。なーんだ。そういうことか。なんかあたし、バカバカしくなってきちゃった。部長って、あたしに気のあるそぶりをしておきながら、ちゃっかり、水田先輩とも繋がってたってことだよね。ご飯を一緒に食べてるだけじゃなくて、いつでも自由に行き来して、何かあったら水田先輩の元に飛び込んでいたんだ。あーあ、そういうことか。なんかさ、いろいろと取り越し苦労だったってことみたいだね。あの二人は、結局のところ、離れられないようになってるんだ」
どこか楽しそうな沙紀を見て、康太の心も次第に解きほぐれていくようだった。
あるべきところに、すべてがすとんと収まって行く。
それぞれが抱えている悩みははまだまだ山積み状態だが、それも時間をかけてゆっくりと解決していくのだろうと思えるのだった。